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離島・浮島

ページ番号:0014140 更新日:2021年11月1日更新

やさしい人と自然にあふれた島 - 周防大島諸島 - 周防大島町

浮島(うかしま)

浮島

1 プロフィール

  • 面積 2.27平方キロメートル
  • 人口 176人
  • 世帯数 92世帯
  • 本土からの距離 5.0キロメートル
  • 学校 浮島小学校
  • 病院・診療所 -

 ※人口、世帯数は令和5年4月1日住民基本台帳による。

 問い合わせ先 周防大島町政策企画課 0820-74-1007

 周防大島町の日前港から北約5キロメートルの瀬戸内海に浮かぶ島です。
 浮島の名の由来については1.海上に浮かんで見えるから、2.宇賀島水軍の島だったから、3.支配者が不明の島だったからの3説がありますが、いずれか不明です。
 島の大部分は瀬戸内海国立公園の区域に指定されていますが、周辺の眺めも素晴らしく、柱島群島をはじめとする大小たくさんの美しい島々を望むことができます。
 島内には、島の南側に江ノ浦、北側に樽見の2集落があり、それぞれ漁港や集会所が整備されています。島の周囲は、好漁場となっており、イワシ、タチウオをはじめとする多くの魚が水揚げされています。島内には、イリコの加工場がたくさんあり、浮島産のイリコの味は絶品との評判です。
 浮島の北側にある無人島頭島とは農道橋で結ばれています。

浮島の伝承

瀬戸内海水軍と浮島

室町時代後期には、浮島と大島の一部は、大内氏の水軍の拠点となっていましたが、大内氏の滅亡後、中国地方の覇権をかけて毛利氏と陶氏が争った厳島の合戦において、浮島を拠点としていた宇賀島水軍は陶側につき、大敗を喫します。この後の毛利氏による掃討戦を経て、浮島は、一時期無人島となったといわれています。また、毛利氏は、広島城の築城に際し、浮島の大木を大量に切り倒し、使ったといわれています。

えびす舞い

島に伝わる祝唄で、室町時代頃から始まったと伝えられています。もともと即興で行われ決まった形は引き継がれていませんでしたが、地域の有志が唄や振り付けを考え、現在では、島内の小学生を中心に伝承活動が続けられています。小学生による舞いは、大漁旗を縫い合わせて作ったカラフルな衣装と振り付けが見事に調和し、島の自慢の一つとなっています。

大蛇と大ねずみの伝説

浮島に移り住んだ人たちが、大蛇や大ネズミなどと戦いながら、島を開拓していく、島の創世記の様子が語られています。大ネズミを退治するとき建てた社が、江ノ浦にある江ノ浦明神(磐尾神社)だといわれています。また、ネズミの墓も頭島にいくつか残されているようです。

2 浮島に行く

 本土との間には1日4往復の定期船<外部リンク>が運航されています。

本土側定期船乗り場 周防大島町日前港

ひらい丸

 定期船「ひらい丸」

  • トン数:19.0トン
  • 航海速力:16ノット
  • 旅客定員:62人

 問合せ先 周防大島町政策企画課 (0820-74-1007)

3 浮島を見る

磐尾社

磐尾社 の画像

 約360年前に島内に移り住んだ人たちが、島の悪霊を退散させるために建立したものと伝えられています。境内にはホルトノキの大木があります。また、周辺は桜の名所となっています。

樽見観音

樽見観音の画像

 観音像は、もともと大島のお寺に安置されていたものを、江戸時代の安永年間に島内に悪疫が流行した折りに、尼僧智源がこれを抱いて島に渡り、その祈祷と観音像の霊験により悪疫を退散させたと伝えられています。尼僧智源の開基といわれており、堂内にある西国三十三観音像や小石に法華経を写経した一字一石経の一部が祀られています。

浮島小学校

浮島小学校の画像

 学校は島内両集落のちょうど中間点の楽ノ江にあり、定期船から降りて桟橋を渡ると、そのまま校庭につながっています。学校の裏はみかん畑で、大変恵まれた自然環境の中にある学校です。
 クリーム色の校舎が、海の青、山の緑と鮮やかなコントラストを描いています。

頭島と農道橋

農道橋(左が頭島) 無人の頭島(かしらじま)とは農道橋で結ばれています。頭島には温州みかんが栽培されています。(写真の左が頭島、右が樽見漁港です)

4 浮島で買う、食べる

おみやげ

 イリコ、ヒジキ

郷土料理

 イワシを使った料理が多く、イワシの押し寿司、イワシの酢漬け、イワシの天ぷら等新鮮なイワシを使った料理は大変美味です。

5 浮島に泊まる

 島内には宿はありません。

6 浮島に住む

 周防大島町のUJIターン支援のページ<外部リンク>