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平成19年 (2007年) 9月 11日

河川課

自然豊かで多様な川

東大寺造営の用材を山から運んだ佐波川関水さばがわせきみず

 治承4年(西暦1180年)の平重衡たいらのしげひらの南都焼打ちによって焼失した東大寺再建のため、朝廷は俊乗房重源しゅんじょうぼうちょうげんを大勧進に任じ、周防国をその造営料国にあてました。佐波川上流の徳地町なめらから切り出された用材を河口まで流すため、水深を確保する目的で当時118ヶ所の堰が設けられました。この堰は関水と呼ばれ、現在残されている1ヶ所の関水は国の史跡として指定されています。

佐波川関水

佐波川古図

出典:佐波川今昔集(旧建設省山口工事事務所)

出典:浚防河図(佐波川通船絵巻)佐波川部分(中野景治氏蔵)



台地を潤した潮音洞ちょうおんどうと水車(錦川/周南市鹿野)

 鹿野の台地は、錦川より20~30mも高いため、村人たちは毎日の水汲みや田畑を耕すのにも大変な苦労をしていたため、この台地に水を引き入れることは多くの人々の願いでした。

 毛利家の郷士の岩崎家に生まれた想左衛門池重友そうざえもんしげともは、こうした苦労を見て、漢陽寺かんようじ裏山に約90mにもおよぶ岩を堀り抜く工事を、4年の歳月と私財を投げうって1654年に完成させました。この掘ったトンネルはいつしか「潮音洞」と呼ばれ、鹿野台地の田園は潤い、各地に次々と新しい田園がつくられ、現在の鹿野町の農業の発展の基盤となりました。

 鹿野町には「潮音洞」から引かれた水路沿いに散歩路が整備 され「清流通り」と名付けられています。そこには日本庭園やショウブなどが植えられた水草池にあわせて、茅葺き屋根の「水車小屋」も再現されています。

 この水車は昔の人々が考えたすばらしい水の使い方といえま す。水車は水の流れの力を利用して水を高いところへ汲み上げて水田のかんがいに使ったり、米やソバの脱穀に使われてきました。

清流通りに再現された水車小屋(周南市鹿野)

大内時代より引き継がれるホタル狩り文化

 山口県は昔からゲンジボタルの生息として有名で、3水系25河川が天然記念物指河川となっています。特に、山口市街地を貫流している一の坂川は1935年(昭和10年)に“国指定天然記念物山口ゲンジボタル発生地”として指定されました。一の坂川では、1971年(昭和46年)の災害を契機とした河川改修によりホタルの絶滅が懸念されるため、日本で初めてホタル護岸工法を実施しました。一の坂川沿川の地域ではホタルが生息できる清流を守ろうという強い思いや、環境に対する意識の高揚とともに、地域の小学校児童や「大殿ゲンジボタルを守る会」などが中心となり、ゲンジボタルの幼虫の放流活動が行われています。

 毎年6月初旬に行われる「ホタル祭り」は山口の初夏の風物詩となっています。

一の坂のホタル乱舞

山口・一の坂周辺の新しい文化

 蛍の舞い、桜の名所として有名な一の坂川、堅小路周辺を舞台に民家や商店、喫茶店などが中心となり手作りの展示会場を設け、気軽にアートを楽しむというイベント(アートふる山口)が催されています。このイベントを通して様々な文化と人々に触れることにより、自分達のまちへの認識と郷土愛を育み、誇りの持てるまちづくりを実践しています。

一の坂川アートふる山口

三年寝太郎公園 (厚狭川)三年三ヶ月寝て考えた「わらんじ(わらじ)長者」による水開発(厚狭川)

 厚狭川河畔の寝太郎公園は、寝太郎公園にちなんで船、わらじ、桶、砂金をイメージした公園に加え、交流の場・活力のオアシスの場として“ゆめ公園”が整備されています。これらの公園は厚狭の寝太郎物語をテーマに、水辺を拠点とした人と自然と文化のネットワーク整備を目的としたものです。

寝太郎神社/山陽小野田市

千石船の公園(厚狭川)/山陽小野田市

桶の公園(厚狭川)/山陽小野田市

~寝太郎の言い伝え~

 むかし、むかし、厚狭の里にものぐさな若者がいました。毎日毎寝てばかりいたので、村の人に寝太郎と呼ばれていました。

 三年三月寝て暮らしたある日、村一番の金持ちである父親に千石船といっぱいのわらじを作らせ、かこ(水夫)を8人連れて佐渡ヶ島へと向かいました。

 佐渡ヶ島へ渡った寝太郎は、島の人を呼び集め履きふるしたわらじと新しいわらじを取り替えてあげました。島の人は大喜びで、あっというまに千石船は古いわらじでいっぱいになりました。かこたちはこれを見て目を丸くして驚きました。

 古いわらじを佐渡ヶ島から持ち帰った寝太郎は、父にせがみ大きな桶を作らせました。桶ができると、今度はその中に水をいっぱいはらせ、その中に古いわらじをどんどん入れ、今度はわらじについた土をその中に洗い落とさせました。桶の上水を捨てて桶の底をよく見ると、中にキラキラ光る金の砂がありました。 寝太郎は、三年三月寝たすえに、このような砂金を手に入れたのです。

 寝太郎はそのお金で厚狭川をせき止め、田んぼや水路を作り、開作地にしました。この寝太郎は今では寝太郎様といって神様にまつられているということです。

 当時、佐渡ヶ島は名高い金山で、土を持ち出すことは禁じられていました。


平生開作と南蛮樋なんばんひ(熊川)

 平生湾一帯の干潟の大規模な干拓は、大野毛利氏の初代就頼なりよりの時代に行われました。熊川は干拓地の内水を排水するために造られた河川ですが、干拓地の地盤が低いため、満潮時には海水の侵入を防ぎ、干拓地内の塩 害を防止する必要がありました。そのため、就頼は熊川下流端にオランダの技法による防潮樋門(南蛮樋)を建造しました。

 南蛮樋はロクロ(南蛮と称する)の心棒部分と板戸を縄で結び、鉄製ハンドルを手動で回転させることにより、板戸を上下させて、海水の侵入を防ぎます。一日二回の満潮場には必ず樋門を閉めなければならず、樋守ひもりの役割は平生村の死活に関わる大切なものでした。

 昭和62年に大内川排水機場が一部完成したため、海抜0メートル地帯の住民の生活を守る役目を果たしてきた南蛮樋はおよそ300年に渡るその使命を終えました。


漂泊の歌人「山頭火」:水を詠む

  種田山頭火:句集

石をまつり水のわくところ

岩かげまさしく水が湧いてゐる

枯山のむほどの水はありて

落葉ふかく水汲めば水の澄みやう

まひまひしづか湧いてあふるる水なれば

こんなにうまい水があふれてゐる

ふるさとの水をのみ水をあび

涸れきった川を渡る

分け入れば水音

秋風の水音の石をみがく

たたへて春の水としあふれる

涸れてくる水の澄みやう

水に放つや寒鮒みんな泳いでゐる

水のうまさを蛙鳴く

立ちどまると水音のする方へ道

水音といっしょに里へ下りて来た




中原中也:冬の長門峡


長門峡に、水は流れてありにけり。

寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。

酒酌みてありぬ。

われのほか別に、

客とてもなかりけり。

水は、恰も魂あるものの如く、

流れ流れてありにけり。

やがても蜜柑のごとき夕陽、

欄干にこぼれたり。

ああ!―そのやうな時もありき、

寒い寒い、日なりき。



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