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平成26年 (2014年) 8月 6日

文化振興課

維新史回廊トピックス〈Vol.2〉

 みなさんこんにちは。維新史回廊トピックスの第2号は、「第二次長州征伐」(山口県では「四境戦争しきょうせんそう」とも呼ばれています。)を取り上げます。この戦争に敗北した幕府は、急速に求心力を失いました。

 「四境戦争」では文字どおり大島口、芸州口、石州口及び小倉口の4つの国境くにざかいで幕府軍と長州軍が戦いましたが、今回は、この中の芸州口の戦いについてご紹介します。

 解説は、山口県文化振興課の上田資料調査研究員です。


◆四境戦争(長州戦争)~小瀬川口の戦い その1~◆


序 長州藩朝敵となる(四境戦争に至る背景)


 文久2年(1862)7月以降、長州藩は、幕府が朝廷の命を受けて日本中の全ての領主を攘夷じょういに動員する「奉勅ほうちょく攘夷」の実行を、朝廷と幕府の間に立って双方に働きかけていました。しかし翌3年(1863)8月18日、幕府との決定的対立を避けようとする孝明天皇の意向を奉じた中川宮と会津・薩摩両藩を中心として政治クーデターが決行されます(8.18の政変)。これにより長州藩は、京都での政治的基盤を一夜にして失ってしまいました。そのため長州藩は、朝廷に政策の変更を求めるため、世子毛利定広の進発上京を決定、翌元治元年(1864)7月19日その先発隊が京都に侵入し、京都を守衛する諸藩の軍勢と衝突しますが、敗走を余儀なくされました(禁門の変)。


蛤御門(京都市中京区)に残る禁門の変の銃痕

蛤御門(京都市中京区)に残る禁門の変の銃痕


 この時御所に向かって発砲した罪により、長州藩は朝敵となります。長州征討の勅命を受けた幕府は、前尾張藩主徳川慶勝よしかつを征長総督に任じ、36藩に出兵を命じました。これに対し長州藩政府は、禁門の変の責任者として益田右衛門介うえもんのすけ福原ふくばら越後・国司くにし信濃の三家老を切腹させ、四参謀を斬罪に処すなどして恭順の意を表したので、慶勝は撤兵を命じて帰東します(第一次長州征伐)。


【四境戦争勃発までの流れ】

年月

できごと

1863(文久3)年8月

8.18の政変により京都から撤退。

1864(元治元)年7月

長州藩、京都に侵攻し、御所に発砲(禁門の変)。

1864(元治元)年7月

長州藩追討の勅命を受けて、幕府、第一次征長令を発す。

1864(元治元)年9月

長州藩内で幕府への恭順を唱える俗論派が台頭。

1864(元治元)年11月

長州藩、禁門の変の責任者を処刑し、討伐を免れる。

1864(元治元)年12月

高杉晋作ら下関で挙兵、内戦となる。

1865(元治2)年1月

高杉らの軍、大田・絵堂の戦いで藩政府軍を破る。

1865(元治2)年3月

「武備恭順」の藩是決定。

1865(慶応元)年9月

幕府、長州再征の勅許を得る。

1866(慶応2)年6月

第二次長州征伐開戦。


 この間、長州藩内部でもこのような危機を招いた関係諸役人の責任を厳しく追及する動きが起こりまし。尊王攘夷運動を推進した人物がことごとく更迭され、幕府への謝罪で事態を乗り切ろうとする恭順派が要路を占めると、尊攘派は厳しい弾圧を受けます。

 このような状況下に、恭順派の対幕府方針に反対する高杉晋作は、諸隊を率いて軍事クーデターを起こします。これに対し恭順派政府は、元政府員7人を処刑、家老清水清太郎を切腹させ、さらには、高杉らが依拠する諸隊の追討を命じたことから、元治の内訌ないこうとよばれる内戦に発展します。


功山寺の高杉晋作銅像(下関市)

功山寺の高杉晋作銅像(下関市)


 しかし、恭順派政府の派遣した追討軍は、意気軒昂な諸隊軍の前に敗北を喫し、また萩城下でも事態を収拾しようとする鎮静会議員の動きが起こり、恭順派は終に失脚することとなりました。

 この内戦を経て新たに編成された藩政府の採った政治路線は、朝廷・幕府の命令に謹んで従う態度を示しながらも、軍事力の再編強化を進める「武備恭順」というものでした。

 一方で、朝廷・幕府内には、第一次長州征伐の撤兵決定直後から、征討の不徹底を指摘する声があり、このような長州藩内の情勢変化も加わって、慶応元年(1865)9月、長州への再度出兵が決定されます(第二次長州征伐)。征長軍は藩主父子の隠居謹慎と、領土10万石の削減を核とする長州処分の受け入れを要求しましたが、長州藩はこれを拒否し、そしてついに慶応2年(1866)6月7日、幕府艦隊の周防大島への砲撃を皮切りに、14日には芸州口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始され、第二次長州征伐、征長の役、長州戦争、山口県内においては四境戦争とも呼ばれている戦いの幕が切って落とされたのです。

 今回は、この四境戦争の中から、芸州口における戦闘の発端となった、6月14日の小瀬川口の戦いについてご紹介します。


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1 小瀬川口の戦い


「芸州小瀬川合戦略図」(『増補改訂和木町誌稿』)をもとに作成

「芸州小瀬川合戦略図」(『増補改訂和木町誌稿』)をもとに作成


○征長軍・長州軍の配置

 広島から己斐こい廿日市はつかいち・大野・玖波くばを過ぎ、山陽道は小方で二つのルートに分かれます。苦の坂を越えて木野村の中津原から小瀬村へ船で渡り関戸を越える古くからの山陽道と、油見・大竹を経て小瀬川下流を渡り和木村から新港を通って岩国に到る海岸ルートです。前者を苦の坂口あるいは中津原口、後者を大竹口といい、6月14日の戦闘ではともに主戦場となりました。

 6月13日、征長軍は、大竹口を正面攻撃を仕掛ける追手(大手)と定め、彦根井伊家の軍勢を配置します。苦の坂口は背後から攻撃を仕掛ける搦め手とされ、越後高田榊原家の軍勢がこれに当たります。海上には新港を牽制攻撃するため、幕府の軍艦三艘が派遣されました。

 長州軍は毛利幾之進(吉敷毛利)を総督とする遊撃軍を小瀬村に駐屯させて芸州口の主力とし、関戸へ至る小瀬峠の関門は、岩国兵が厳重な柵を設けて大砲を据えました。和木村は室の木口受け口と定められて、岩国領の諸兵が固めます。小瀬川下流に架けられていた土橋を落とし、関ヶ浜村妙見山、瀬田村寺ヶ原村、和木村八幡山の3ヶ所に大砲を据え、所々に地雷火を埋めて征長軍の侵入に備えました。


遊撃隊の本陣となった籌勝院(岩国市小瀬)

遊撃隊の本陣となった籌勝院ちゅうしょういん(岩国市小瀬)


 13日夜にも数発砲声が響きましたが、実際に戦闘が始まったのは14日未明のことでした。


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○戦争の経過

 大竹口における戦闘は、六ツ時(午前4時半頃)、勢揃いした彦根軍の一の手木股土佐隊の使番竹原七郎平・曽根佐十郎2騎が、小瀬川を渉ろうとしたところを、岩国しゅうよく団が銃撃して開始されました。双方が激しく大砲・小銃を打ち放ち、和木村では火災が発生します。その頃遊撃軍は隊を3つに分け、一隊は中津原から川沿いに大竹村に至り、一隊は立戸山を越えて敵の側面を衝き、一隊は苦ノ坂を直進し榊原勢を迎え撃ってこれを後退させ、小方へ進みました。


小瀬川に立つ四境戦争記念碑(和木町)

小瀬川に立つ四境戦争記念碑(和木町)


 征長軍は海上からも幕府の軍艦が新港を攻撃し、幕府が誇る歩兵隊を投入する手筈でしたが、結局この日の戦闘には参加しませんでした。一説に、萩本藩と岩国領との離間工作を行っているうち、時機を逸したと伝えられています。

 大竹口の岩国勢は、彦根軍と激しい攻防を繰り返していましたが、遊撃軍が彦根軍の側面から攻撃を加えると、彦根軍はたちまちにして崩れ始めます。苦の坂を越えた一隊も彦根・榊原軍の後方を突いて攻撃しました。大竹村では1,000余の家屋が焼け、そのなかを逃げ惑う彦根・榊原の軍勢のなかには、新開へ追い立てられて海へ飛び込むものもあれば、あまりに多人数が乗りこんだため転覆する船もあり、実に凄惨を極めたといいます。

 この日長州軍は、小方からさらに玖波にまで攻め込んで、本陣を守る彦根兵と交戦、これを敗走させた後、兵を収めました。玖波が落ちたのはおよそ昼頃、ここでも村のおよそ半数が焼亡しました。

 彦根・榊原勢が逃走した後には、おびただしい数の甲冑かっちゅうや大砲・小銃・槍などの武器や日用品が散乱していました。また武器だけでなく兵粮ひょうろうも残されていました。これは後に罹災した村々にも分配されました。


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2 勝因と敗因

 当初、この小瀬川口の戦闘は、相当な苦戦が予想されていました。岩国領主吉川監物は、敵兵を岩国城下に引き受ける覚悟で戦いに臨んだと伝えられています。また遊撃軍参謀河瀬安四郎も、後で紹介する報告書の冒頭で、「此度の大勝利、実に意外に出候」と述べています。では、そこにはどのような勝因があったのでしょうか。次にこの点についてみてみましょう。


○「小瀬口戦争私記」


「小瀬口戦争私記」岩国徴古館蔵(岩国市)

「小瀬口戦争私記」岩国徴古館蔵(岩国市)


 岩国の藤田葆(1830-1921)が大正2年(1913)にまとめた「小瀬口戦争私記」は、この戦闘における勝利を評して次のように述べています。


 「十四日ノ戦ハ、幕兵皆太平世禄ノ士将タル者、假令軍法ヲ知ルモ席上ノ学問ナリ、但井伊榊原ノ如キハ、是ヨリ先大和浪士ノ討手ニモ出張シ、又元治京師御所近キ騒動ニモ出テ戦ヒタリ、然ルニ今度芸地出軍猶尚旧式甲冑陣羽織ヲ用ヒシハ如何ゾヤ、其一敗地ニ塗ル亦宜ナル哉、我長防諸隊ノ如キハ黒キ折笠黒呉服ノ筒袖羽織胸ヲトヂル立付袴、皆一様ニテ軽装ナルハ、砲銃戦行動ノ要ヲ得タルナリ」(『岩国市史 史料編二 近世』所収)


 ここではまず幕府軍の指揮官が実戦経験に乏しかったことを挙げています。その一方で、井伊・榊原といった諸藩の軍勢は、文久3年(1863)8月の天誅組の変や翌元治元年(1864)7月の禁門の変にも参戦しましたが、そこで勝利をおさめたがゆえに、かえって軍制・装備の見直しが遅れ、今回も甲冑に陣羽織といった旧態依然の軍装を踏襲したまま戦争に臨んだことが指摘されています。

 翻って長州軍諸隊は、士官から軽卒に到るまで、黒い筒袖の上着に立付袴たっつけばかまという軽装でした。これは幕府歩兵隊にも採用されていた軍装で、洋式の砲銃戦に適した動きやすいものです。このことは、禁門の変での敗戦、さらには元治の内訌を経ることによって、長州藩が抜本的な軍事力の改編に取り組み、徹底した洋式銃隊化を図っていることの象徴とも言えるでしょう。


アンベール『幕末図説』に描かれた「大君の戦士」『日本の砲術-和流砲術から西洋流砲術へ-』(板橋区立郷土資料館 図録2004)より

アンベール『幕末図説』に描かれた「大君の戦士」

『日本の砲術-和流砲術から西洋流砲術へ-』(板橋区立郷土資料館 図録2004)より


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○河瀬安四郎報告書

 では、実際に干戈かんかを交えた現場では、この軍事力の差がどのように受け止められたのでしょうか。この点を遊撃軍参謀河瀬安四郎が、山口政事堂へ提出した6月16日付の戦闘報告書(66四境戦争7 「芸州口戦争記参考」 山口県文書館蔵)から抜粋してみましょう。


 「〈前略〉何分甲冑夥しき事数知れず、火砲も十余挺隊中へ奪ひ候、中ニもアメリカホード拾弐封度弐挺此分ハ余程の名砲乍併ライフルニ而ハ無之候、小銃ハ少く、偶これ有り候もヤーグル又は倭筒にカンを付け候様の物にて無用の品のみ、それ故戦争中にも小銃せり合は余程容易に候得共、大砲は思ひの外能く打ち候様相考えられ〈下略〉」


 井伊家の軍勢が逃げ去った後には、おびただしい数の甲冑が脱ぎ捨てられていました。これは、井伊家の軍勢の中に、甲冑陣羽織を着し、美々しく飾った出で立ちで戦闘に参加することを武士の誉れとする観念が色濃く残っていたことを示しています。


分捕り品と伝えられる当世具足(和木町歴史資料館蔵)

分捕り品と伝えられる当世具足(和木町歴史資料館蔵)


 武器類も多く残されていました。遊撃隊が戦利品として分捕った火器は、大砲が12挺、中には、ライフル砲(砲身の内面にらせん状に溝をつけたもの)ではないものの、アメリカ製の大砲も2挺含まれていました。これらの大砲による攻撃力は、遊撃軍が想定していた以上に高かったようです。これは彦根藩が、弘化4年(1847)から安政元年(1854)までの間、江戸湾警衛の軍役を勤め、特に井伊直弼なおすけが藩主となった嘉永3年(1850)以降、海防の充実に力を注いだ成果であると考えられます。

 その一方で、小銃は数が少ない上に、あったとしても旧式のヤーゲル銃や和銃を改造したものでした。これらの銃は、長州軍諸隊が主として装備するミニエー銃と比較すると、射程距離や命中精度に大きな差があり、河瀬報告書も、小銃の撃ち合いでは長州軍が圧倒的優位を占めていたと書いています。

 さらに河瀬報告書は、「味方の兵山々谷々を駈廻り進戦の形容、中々言語には尽くせざる次第」と、長州軍が道なき道を駆け回って奮闘した様を伝えています。その際、筒袖の上着に立付袴という軍装が、その行動にすこぶる便利であったことは、容易に推察されます。

 このように、軍事力の洋式銃隊化、使用する小銃の性能如何が、両軍の勝敗を分けた大きな要因であったことが確認できます。


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○「彦根藩届書」

 では、敗走した井伊家側では、この戦闘における敗因をどのように見ていたのでしょうか。『新修彦根市史8 史料編 近代』所収の幕府へ提出された「彦根藩届書」は、その原因を次のように述べています。


敵勢約300人が、小瀬川を渡って芸州側の大竹山より大小砲による攻撃を加え、味方一手隊の後方をふさいでしまいました。

二手隊・三手隊は、油見村で激しい戦闘となり、三方を囲まれ苦戦しているにもかかわらず、幕府の歩兵隊は新港を攻撃することもなく、応援もしませんでした。

苦ノ坂へ出張した一隊は、敵勢が先に頂上を取って大小砲を打ち下ろし、且つ道の両脇樹間より激しい砲撃を受けたため、持ちこたえることが出来ずに小方村まで後退ました。

山の麓や海辺での戦闘に苦戦し、且つ帰途に当たる村々は焼き尽くされ、軍勢は進退窮まり、器械類も破損したため、本営を守備する意義も薄れ、広島まで退却することを決定しました。


 ここから、長州軍は地の利を生かして彦根軍の側面や後方からも攻撃を加え、前軍と後続の間を分断するとともに、退路を断つことに成功したこと、散兵を巧みに利用して銃撃戦を有利に導いたことが窺えます。そのような中で苦戦を強いられた彦根軍を、幕府軍が援護しなかったことも敗因として挙げられたのでした。


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○彦根城下の風聞


 征長軍が大敗を喫したというニュースは、瞬く間に日本国中を駆け抜けました。近江八幡の商人で、尊攘の志士としても活躍した西川にしかわ吉輔よしすけの風説留(滋賀大学経済学部附属史料館寄託、真崎文庫、資料提供山口県史編さん室)には、早くも6月18日の巷説(こうせつ)として征長軍の大敗北が書き留められています。その後は、実際に戦闘に参加した藩士や農兵の談話なども登場するようになります。

 7月13日西川が渋谷俊造という人物から直接聴いた話の中に、6月14日の戦闘で敵方の捕虜となった彦根農兵の話として、次のものがあります。


 〈前略〉農兵は八十人余敵方へ生捕れけるが、敵方にて是を改め、その方共には聊拘ることにあらす、助命し差返すところなりとて酒食を与へ、一人毎に五百疋を恵み、早々この場を脱れ帰国し、如何様も潜伏して時節を待へしとて篤く是を諭し、国境迄厳重ニ護送士をつけ送り帰さしむ、その処置厳整にして行届きたり、尤武備軍令等は勿論にて、容易に討入なとヽ云こと努叶ふへからすと、脱走農兵の直話なりと云〈後略〉


 長州軍は、生け捕った農兵にはこの戦争に対する責任はないとして、酒、食事と路銀500ぴきを与え、国へ帰って潜伏するよう諭し、国境で解放したということです。その時の待遇も丁寧で行届いており、ましてや軍備・軍令等が行届いていることはもちろんのことで、そこに攻め込むなどということはそう簡単に出来ることではない、とこの農兵は渋谷に語ったということです。この軍備・軍令については他にも「長防人は強壮豪勇、中々以て敵対すべからず、彼国の武威凛乎りんこ、武備充実、軍令行届きたる事は、異口同音に是を賞歎す」(「同(7月)十五日島田氏来話」)という彦根城下の巷説が出てきます。この時彦根城下では、「聊(いささ)かも敗北のことを語らしめず」という状況でしたが、一方で敵方である長州軍については、異口同音に賞賛したということです。

 また、前掲渋谷の談話のなかには、農兵を恐怖させた地雷火について、次の記事があります。


 防地(周防)ニ於て地雷火に陥けるか、実に恐るべき限り也、その黒烟の中ニ数百人の烟に咽ひ烈火に苦む声、恐ろし共憐れ共諭(喩)るに物なく、その悲鳴の声今に耳の底に残りて恐ろしく思ひ出せり、実に身の毛もよだつ計なりと


 この地雷火は、岩国城下から徴募された農商兵神機団が専門にその敷設を担ったものでした。この農兵は、それによってまさに阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図を体験したのでした。

 西川の風説留のなかには、他にもこの戦争で活躍している長州軍が、武士以外の身分も含めて構成されていることを伝える記事が散見されます。これらの記事では、武士だけでなく、他の諸身分までをも兵卒として編成した長州軍が、征長軍に四方を囲まれてもなお士気の高いこと、軍備の充実はもちろん軍令も徹底し統制がとれていること、捕虜にも人道的な対応を施す節度ある軍隊であることなどが語られています。このような長州軍の性格が、緒戦における勝利の大きな要因であったと考えられます。そしてこれらの情報は、征長軍惨敗のニュースとともに、日本全国に向けて発信されていったのでした。


 ※ 史料引用に際しては、便宜上読み下し文に改めました。


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〈参考史料・参考文献〉

毛利家文庫66四境戦争7「芸州口戦争記参考」(山口県文書館蔵)、同18「芸州口戦争記参考」(同)、同33「諸口戦闘報知其外」(同)、嘉屋文書(和木町教育委員会蔵)、「小瀬口戦争私記」(岩国徴古館蔵)、『修訂防長回天史』(末松謙澄、マツノ書店復刻版、1991年)、『山口県史 史料編 明治維新6』(山口県史編さん室、2001年)、『岩国市史 史料編2近世』(岩国市史編纂室、2001年)、『増補改訂和木町誌稿』(末岡美胤、1980年)、『大竹市史 史料編第1巻』(大竹市役所、1962年)、『新修彦根市史第8巻 史料編 近代』(彦根市史編さん室、2003年)、『幕府歩兵隊』(野口武彦、中央公論新社、2002年)、『近世幕領の行政と組合村』(久留島浩、東京大学出版会、2002年)、『長州戦争と徳川将軍』(久住真也、岩田書店、2005年)『長州戦争』(野口武彦、中央公論新社、2006年)、『幕末維新の彦根藩』(佐々木克編、彦根城博物館叢書1、2001年)、『日本の砲術―和流砲術から西洋流砲術へ―』(板橋区立郷土資料館、2004年)


今回ご紹介した中で出てきた資料については、下記の資料館等でご覧いただけます。

○ 小瀬口戦争私記

☆ 収蔵施設  岩国徴古館

☆ 住所    山口県岩国市横山2-7-19

☆ 電話    0827-41-0452

☆ 開館時間  9時から17時まで(ただし、入館は閉館30分前まで)

☆ 休館日   月曜、祝日(ただし、月曜日が祝日の場合はその翌日)、年末年始


○ 濃紺糸威赤塗前胴鎧

☆ 収蔵施設  和木町歴史資料館

☆ 住所    山口県玖珂郡和木町瀬田 鉢ヶ峰総合公園山管理棟2階

☆ 電話    0827-52-3751

☆ 開館時間  9時から17時まで(ただし、入館は閉館30分前まで)

☆ 休館日   月曜、祝日の翌日、年末


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