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トップページ > 組織から探す > 文化振興課 > 維新史回廊構想・維新史トピックス(第3号)

平成26年 (2014年) 8月 6日

文化振興課

 みなさんこんにちは。維新史回廊トピックスの第3号は、四境戦争(長州戦争)小瀬川口の戦いの2回目として、戦場となった村々の様子をお伝えします。

 四境戦争で、実際に戦場となった村々、特に被害の大きかった広島藩領の人々の戦時下での生活は、過酷なものだったようです。その中で、人々の生活を守るために奔走した村役人の姿勢には頭が下がります。

 解説は、山口県文化振興課の上田資料調査研究員です。


◆四境戦争(長州戦争) ~小瀬川口の戦い その2~◆


3 芸防国境の村々と戦争


○戦争と民衆

 近世社会は、戦争を遂行するために必要な様々なやくを、身分に応じて負担させるシステムを組み込んで成り立っていました。武士は禄高ろくだかに応じて軍役ぐんやくを勤め、武器はもちろん武具や馬、兵粮ひょうろう等の一切を用意し、相応の従者じゅしゃを引き連れ、戦闘員として戦場に赴くことを建前としていました。この従者の中には、農村からの出稼ぎ奉公人も含まれていましたが、長州藩は1865年の軍制改革によって、これらの奉公人を総て銃卒あるいは砲卒、すなわち最下級の戦闘員として動員する体制を整えました。

 農村からは軍夫が徴発され、非戦闘員として従軍し、輜重しちょうの輸送や陣地・宿舎の設営、人馬への糧食の供給等、兵営での種々の諸用を務めます。その賃銭も含め、村々には軍用金や兵粮・物資の供出が課せられ、また戦場までの道筋とその周辺の村々には、戦場への物資輸送という負担が重くのしかかりました。

 一方で海に面した村々では、外国船の往来が頻繁になってくる1850年代以降、海防のための農兵取り立てが行われていました。国内で戦争の緊張が高まると、この農兵も兵卒や軍夫とともに、国内戦争に向けて動員されるようになります。さらに県内各地で結成された諸隊は、百姓・町人の他、僧侶・神官・力士・被差別部落の人々など、さまざまな身分を兵卒として編制したものでした(『山口県史 史料編 幕末維新6』)。

 このように、四境戦争において長州軍は、あらゆる身分の人々を戦闘員・非戦闘員として最大限に活用し、幕府および征長軍諸藩の大軍に対峙します。そして女性もまた、この戦争に無関係ではいられませんでした。

 「小瀬口戦争私記」は、芸州口の最前線となった和木村について、「和木ノ農兵ヲ義勇団ト称ス、百人計リ一隊ヲ為シ村境ヲ守ルナリ、諸兵炊出場ハ村中ニ設ク、兵糧運搬迄皆村ノ女ノ働キナリ」(『岩国市史 史料編2』)と記述しています。同村では、100人に上る男たちが農兵として村境の守衛に参加し、女たちは兵粮の炊き出しから運搬までを担って、戦争の遂行に協力しました。このときの和木村庄屋嘉屋かや種之介たねのすけの妻みつに対する褒美ほうびの沙汰書が、和木町教育委員会が所蔵する嘉屋家の文書のなかに残されています。


嘉屋文書(和木町教育委員会蔵)

嘉屋文書(和木町教育委員会蔵)


和木村

庄屋

嘉屋種之介妻

みつ

この者事、当六月十四日戦争の節、兵粮焚出し心遣(い)たし、万端気を附苦労せしめ候故、御扶の趣もこれ有り、称美として時に於いて銀拾五匁遣され候事

 寅十二月


 寅(慶応2(1866)年)12月付けになっていますが、押紙には慶応3(1867)年正月元旦に通達された旨が記載されています。6月14日の戦争で兵粮炊き出しの世話をし、いろいろと苦労をしたので、その褒美として銀15もんめを取らせるという内容です。当時萩本藩の定めた下男1日分の出張費が銀3匁でしたから、銀15匁はその五日分に相当するわけですが、それほど大きい額ではありません。しかし戦争遂行に対する女性の貢献を賞した史料として、重要な意味があります。

 嘉屋文書のなかには、団兵取立てに際して嘉屋種次郎(種之介が改名)が尽力したことを賞する文書も残されています。しかし当時の和木村の様子を記した史料はほとんど伝わっていません。一方で敵方となった大竹村や木野村など、小瀬川を挟んで国境を接した広島藩領の村々については、小方村在住で佐伯郡西部の村々を統括する割庄屋を勤めた和田家に、当時の村々の様子や戦争の状況等を伝える資料が遺されており、隣村の庄屋として種之介の名前も時に登場します。それらの史料の中から、戦場となった村々の様子を見てみましょう。


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○開戦前夜

 次に紹介するのは、当初定められた討ち入り期限の6月5日を目前に、割庄屋和田吉左衛門が佐伯郡御調役へ提出した6月3日付けの口上書です。そこには、開戦を前にした岩国領と広島藩領の様子が、次のように述べられています。


三、四日前から向領村々では家ごとに逃げ支度をしているようで、谷々へ仮小屋を構え家財等を持ち運んで、動揺している様子が窺えます。御当領(広島藩領)御境村々の者も、とても安心してはおられないということで、銘々が心用意などしておきたいと私に相談したりもいたしますが、御下知があるまでは決して騒ぎ立ててはならないと堅く言い聞かせましたので、今のところは農業・家業を勤め、未だ逃げ出した者はおりません。しかし、五日を期限として攻め入るということですので、対岸の岩国領では雨の降るなかをも厭わず人夫が歩き回って、しきりに防御の準備をしています。もう期日まで時間もないことですから、若し準備不足で不覚があってはいけないと思いますので、どのように対処すればよいか、早急にお指図くださるよう、お願い申し上げます。(佐伯郡調役宛 慶応2年「郡用諸事控」『大竹市史 史料編第1巻』所収)


小瀬川(大竹側から和木を望む。)

小瀬川(木野の渡し場跡(大竹市)から小瀬(岩国市)を望む)


 征長軍と長州藩の衝突が避けられない状況になるにつれ、国境の村々の緊張も次第に高まっていきました。しかし、開戦期限を前に小瀬川を挟んで両岸の村々の対応は、大きく異なっていたようです。岩国領村々では、老人・子供や家財道具を安全な場所に疎開させる一方、雨を衝いて防戦の準備が進められていました。

 それを見た広島藩領の人々の間にも不安が広がります。6月朔日、幕府は防芸国境より広島城下までの宿陣となる村々に対し、勧告が有り次第老少婦女病人等を避難させるようにとの布達を発します(「芸藩志」巻62(マイクロフィルム)国立国会図書館蔵)。しかし、国境付近の実際は、村役人に下知があるまでは妄動せぬようにと諭され、不安を抱えつつも平常通りの生活を送っていました。大竹村の村役人が、割庄屋和田から避難の指示を受けたのは6月13日の夕方、既に彦根勢・榊原勢は、油見ゆうみ村から大竹村、小島新開へとそれぞれ進軍し、まさに戦闘準備を整えんとしていました「戦争已来長防運ひ合諸駈引応答御注進書附」(慶応3年、『大竹市史 史料編1』所収)。


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○戦禍に罹った村々


6月14日の被害状況


 6月14日未明に始まった戦闘では、大竹から玖波くばに至る広島藩領の村々が甚大な被害をこうむりました。9月に至り6月14日の罹災状況を佐伯郡役所・村方役所に届け出た和田の報告書によると、大竹村の焼失家屋は居宅だけで892軒、寺院・諸堂4ヶ所、施行屋敷1ヶ所、部屋・土蔵・納屋・牛家など合わせて280軒、計1172軒に上りました。大竹・小島新開・油見・小方・立戸・玖波・黒川各村を併せると、住居だけで1522軒、土蔵・納屋等を含めると実に2129軒余りの家屋が焼失しています(前掲「郡用諸事控」)。

 これらの村々にとって、戦禍は単に家屋を焼かれたばかりでなく、その後の深刻な食糧不足、流行病の蔓延まんえんへと続きます。前掲「芸藩志」巻71は、芸州側の村々における開戦時の避難の様子について、次のように述べています。


其十四日開戦するや、已に沿道の人民には避難の令を布かさるにあらすといへとも、人民は是の如くの大敗走は夢視せざるを以て、此敗績の為め僅に老幼を携へ身を以て免るヽを目的と為し、家財米塩の如きは固より運搬の暇なく、狼狽船に乗し厳島・倉橋島其他附近の島嶼とうしょに向て遁れ去り、其間道諸村落の避難民も東北各村へ遁逃潜伏するを得たりといへとも、各村殊に島嶼の如き食物の頼るへきなきを以て、孰れも饑渇に迫るあり


避難先の島々

避難先の島々


 幕府より老少婦女病人に対する避難勧告が出されていたとはいえ、広島藩領の人々は、征長軍が大敗北を喫し長州勢に攻め込まれる事態になるとは夢にも思っていませんでした。ですから村人たちの多くは、老人や子供を伴い身一つで避難するのが精一杯で、家財や食料は持ち出すことも出来ないという有様でした。中には船に乗り厳島や倉橋島等の島嶼部に逃れる者もありましたが、これは村の中でも比較的裕福な層に限られていたということです。被害に遭った村々の避難民の多くのは、東北山間部の村々に山小屋を設け、戦禍を逃れました。そしてそれらの地域では、急な人口の増加に加え、戦争により物流が滞ったことから、深刻な食糧不足を招くこととなりました。

 また、遊撃軍の河瀬安四郎が政事堂に宛てた6月16日付の報告書は、この時の模様を「土民惣て家財尽き候故、飢饉の躰、泣涕の声傍観に堪えず」(66四境戦争7「芸州口戦争記参考」 山口県文書館蔵)と記しています。焼け出されて食べるものすらない有様を見かねた遊撃隊では、15日から大竹村において焚き出しを開始しました。

 岩国領からも、同日和木村庄屋嘉屋種之助を通じて大竹村に宛て、米100俵と塩30俵が贈られました。前出「戦争已来長防運ひ合諸駈引応答御注進書附」には、これを受け取る大竹村役人の複雑な胸のうちが、次のように記されています。


集まった村役人が言うには、兵火に罹った家屋はわずかに四、五軒、余はことごとく付け火で焼失したのはなんとも残念です。その敵(和木村)から物を貰うなどしては、御上様(広島藩主)に対しても申し訳が立ちません。しかし関ヶ浜・瀬田・和木の3ヶ村とは、従来から出火の際に見舞いの品を交換し合う慣例があるので、無碍に断っては、どのような嫌がらせをされるかわかりません。しかも村内の備蓄米はみな焼失してしまいましたから、昨日の戦争以来まったく食べることが出来ずにいるものにとってはまさに死活問題、その不満が村役人へと向いてしまいます、と。


 火災は戦闘によって発生したものではなく、放火による被害でした。これは広島藩領に侵入した長州勢が、戦略上の目的で西国街道沿いの村々を中心に火を放ったもので、さらに大竹村は岩国勢によっても放火されました。吉村藤舟『芸州口戦記』には、日頃から大竹村とは仲の悪かった和木村の若者が、諸隊のあとをそろりとついて行って、竹箒に火を点け大竹町を軒並にずっと焼いて歩いた、という話も載せられています。

 大竹村の村役人たちは、これに憤懣ふんまんやるかたない思いで、且つ敵から援助を受けることは、広島の殿様に対しても申し訳が立たないと言い募ります。しかし、一方で隣村との間のこれまでの慣行や、それを断った時の意趣返しを恐れ、何より眼前の飢饉ききんにも例えられる惨状を黙視することは出来ず、結局この米と塩を受け取って、1035軒の家々に米3升ずつ、塩もそれに準じて分配したのでした。

 同史料から、ほかにも当時の大竹村の様子をいくつか紹介しましょう。

 この15日には、和木村在陣の岩国勢軍奉行安達弥太郎が、大竹村の組頭精太郎宅を訪れ、岩国領主吉川きっかわ経幹つねまさ監物けんもつ)の意向として、焼失した農具や仮小屋建設のための竹木縄俵等の支援を申し出るとともに、精太郎に村役人としての再建案を質しました。精太郎は、村内の人家がことごとく焼失してどうすればよいのか思案も付かず、一同途方に暮れている様を涙ながらに言上し、また村内には軍勢の乱妨らんぼうを恐れて瀬戸内海の島々にまで避難した者も多く、気も狂わんばかりで、とても農作業や仮小屋の設置などということに考えは到らず、村役人も非常に苦労している旨を申し述べます。

 また、14日の戦闘以降20日になっても農作業の出来ない状態にあるとの記事も見えます。そこでは「農行に出で候気分一人も御座なく、たまたま田の草取りに出で候へば筒(音)烈しく、依って得出で申さず」と、日々の仕事が出来ないほどに強いストレスを感じていることが窺えます。このような状況の中で、村内に留まった村役人たちは、長州から派遣される諸役人への応対や、飢渇する村人のための飯米の確保とその分配等々、これもまた非常な苦労を強いられたのでした。


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○宿陣となった村々

 小瀬村の対岸にあたる木野村では、大竹村のように民家を焼かれることはありませんでしたが、村人が避難した後へ長州軍が進駐して来たため、戦闘後も日常の生活が出来ない状態が続きます。


遊撃軍の本陣となった小瀬村の籌勝院(岩国市小瀬)

遊撃軍の本陣となった小瀬村の籌勝院(岩国市小瀬)


 遊撃軍は小瀬村の籌勝院ちゅうしょういんに本陣を置いていましたが、14日の戦闘以後は川を渡り、木野村の人々が避難して空き家になったところに分宿駐屯しました。その数は700余人、17日にはさらに徴撃隊160~70人が、7月15日にはさらに御楯みたて隊・集義隊・集恩隊700人が加わりました。この長州軍進駐の模様を、木野村の組頭を勤める重三郎の、6月14日から同年12月までの報告書「官軍幕府長防諸隊中戦争已来諸駈ケ引応答書抜帳」(『大竹市史 史料編第1巻』所収)から紹介しましょう。

 6月14日戦闘が始まると、重三郎は開戦に先立ち避難させた家族の様子を見に出かけます。そして帰ってみると、重三郎宅には遊撃隊一小隊34・5人が上がり込んでいました。隊の者は、そこが重三郎の家と判ると、留守のところに大人数で上がり込み、酒・飯・野菜・漬物・梅干等を勝手に食い荒らしたことを詫びた上で、家族を呼び戻して世話をしてくれるように申し入れたということです。

 次に重三郎は、身なりを整えて村内の本陣となった家に出向き、遊撃隊総督毛利幾之進・参謀河瀬安四郎と面会します。そして木野村を陣所とするのであれば、隣村大竹村のような惨禍を招くことがないよう、火の元には十分に注意して欲しいということを申し入れます。河瀬からは、止むを得ず芸州領へ乱妨することとなってしまったが、総ては幕府が軍勢を向けたからであって、芸州領を攻める意図はないので、避難した村人を呼び返して宿陣の世話をするようにと取り成しを依頼されました。しかし、村人たちは諸隊を恐れてなかなかすぐには村へ帰ることが出来ませんでした。

 村に帰っても、村人たちにとっては農業・紙き等の生業が出来かねる日々でした。そしてここでも食糧不足が深刻な問題となります。諸隊兵の宿となった家々には、家内1人につき握り飯2つ宛、8月以降は1人分白米5合宛が宿料として支給されました。その他の村人たちは、諸隊陣中の炊き出し場へ日々握り飯をもらうために駆けつけて、ようやく糊口ここうしのいだということです。

 6月下旬に到ると、諸隊兵の振る舞いに対して村人から苦情が出てきます。村内の百姓が植えつけた野菜類を勝手に食い荒らし、竹木を勝手に切り荒らして困っているが、何分兵士のすることなので、文句を言うことも出来ないというので、重三郎がこれを徴撃隊に訴えると、遊撃隊とも協議の上で、「今後竹木・作物等を濫りに荒らすものがいたら首をねて厳しく罰するので、遠慮なく申し出るように」という返答がありました。

 このほかにも、火を粗末にする、家屋を馬舎に転用して破損する、駐屯する諸隊が増えると、家主が隠しておいた敷物や建具などを勝手に取り出して使用する、また傷病兵の収容に宛てられた18軒のうち4軒では死人が出て家主が迷惑するといった苦情が出ています。そして、長州軍が完全に撤退するには、翌1867年の2月まで待たなければなりませんでした。


幕末当時の面影を残す木野の町並み(広島県大竹市)

幕末当時の面影を残す木野の町並み(広島県大竹市)


 もっともこのような被害は、征長軍が駐屯した諸村でも起きています。「芸藩史」巻71には、大野口辺りに陣取った征長軍が、稲を刈って馬に食べさせたり、蕎麦そばや薩摩芋等もみな食べつくし、家屋を破却してたきぎにするなどの狼藉を働いたとあります。焼失を免れた村々に対しても、この戦争は深い爪あとを残しました。


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○村々への救済

 このように、佐伯郡西部の村々は惨憺さんたんたる戦禍を蒙ることとなりましたが、その後も断続的に続く戦闘のため物資の輸送が滞り、広島城下からの救援は困難な状況が続きました。割庄屋和田は、焼け残った蔵米や紙役所の扶持米、彦根・高田兵が残した兵粮米等660俵をかき集め、諸村への救済に充てますが、慢性的な食料不足に流行病も加わり、諸村の村役人たちはその対応に苦労する日々が続きます。

 国境に近い村々へは、長州側からの支援も行われました。14日の戦闘後、山口政事堂へ戦況報告に派遣された騎馬隊2人の報告には、「岩国領婦人救火の節出され、小方おゐて手伝ひ、大に働候由の事」(66四境戦争38「四境戦争一事」山口県文書館所蔵)と、戦闘後岩国領から女性たちが小方村まで出向き、火災の後片付けに大いに尽力したことを伝える一条があります。

 また食料支援についても、戦闘のあった翌15日、岩国から大竹村へ米と塩が贈られたことは既に述べましたが、その後岩国は本家である萩藩に対しても、大竹村に米を支援するよう、働きかけを行っています。


吉川経幹(吉川史料館蔵)

吉川経幹肖像(吉川史料館蔵)


 『吉川経幹周旋記』によると、岩国領では当初単独での支援も検討しますが、文久期より朝廷・幕府間の周旋や禁門の変、さらにこの四境戦争と出費がおびただしく、その目処が立たないことから、本藩に使者を派遣した際、大竹村に対する支援を要請します。6月26日岩国領の用人安達十郎右衛門は、藩主毛利敬親の居館である山口御屋形において、吉川経幹からの開戦見舞い等を申し述べた後、政事堂において山田宇右衛門・広沢兵助・中村誠一に対し、大竹村への救助を縷々るる申し入れました。その際本藩役人からは、自領内で戦禍を蒙った大島の救助も未だ出来かねる状況で、他藩の支援は出来ないと、いったんは断られますが、安達は、大竹村は特に和木村とはこれまでの関係もあり、この上怨みを重ねるようなことになっては将来何かと不都合を生じることを申し述べ、また、山口政事堂においても隣領との関係を考慮して、終に米500俵、差当たっては100俵の支援が決定されました。この100俵は、焼亡窮民への見舞として7月12日に大竹・小島新開両村に分配されたことが、前掲「戦争已来長防運ひ合諸駈引応答御注進書附」に見えます。


山口御屋形を偲ばせる旧山口藩庁門(山口市滝町)

山口御屋形を偲ばせる旧山口藩庁門(山口市滝町)


 戦争の後、大竹村近辺では流行病が蔓延し、しかも医師は戦争を避けて不在であったため手当ても出来ず、毎日多くの死人が出るという有様でした。和木村役人からその報告を受けた岩国領では、大竹・油見村に医師を派遣することとし、和木村役人を通じて大竹村に対し、諸雑費や薬代は不要であるから、ただ滞在場所を準備してくれるようにと申し入れます。これを受け、村内に残っていた御境役彦八は長百姓たちと協議をして、その受け入れを決定しました。

 6月19日夕刻岩国病院より藤井良悦・山県駿粥が、わずかに焼け残った家に宿泊して7月14日まで村人の診療に当たりました。その時の様子は前掲「戦争已来長防運ヒ合諸駈引応答御注進書付」に次のように報告されています。


日を増し病人多く、日々薬種不容易候所、謝礼一円引請これ無きに付、心ある百姓共は黒豆・青物など薬礼印に差し出し候えども、真の聊か印のみにて実に御雑作事と相見へ、これに依って右日数長百姓吉良右衛門昼夜挨拶つかまつり、并に内夫平十郎附添え、役人共より挨拶として聊か麁酒差し出し、十五日早朝吉良右衛門を以て病院両人和木村へ見送り申し候


 岩国から派遣された2人の医師は、日々増加する病人の診療に当たり、処方した薬も相当な量になりましたが、謝金は一切受け取りませんでした。百姓の中には黒豆や野菜などを薬代の代わりに差し出すものもありましたが、それもほんの印ばかりのことで、医療にかかる費用は大変な額に上ったと推察されます。そこで大竹村では長百姓の吉良右衛門が昼夜二人の医師を尋ね、下働き一人を付き添わせ、また村役人から酒を送るなどして謝意を表したのでした(同前書)。

 7月15日には、遊撃隊等が駐屯する木野村に医師7・8人が派遣されて傷病兵の診療にあたりましたが、村役人から木野村をはじめ大竹・油見・小方村近辺の百姓をも診療して欲しいと嘆願したところ、特別な計らいということで、薬代など無償で村人の治療を行ったということです(前掲「官軍幕府長防諸隊中戦争已来諸駈ケ引応答書書抜帳」)。

 幕府もまた広島藩に罹災民の調査を命じ、7月末に到り米350石が支給されました。広島藩でも、佐伯郡に知行地を持つ上田家に米金を提供させて家臣とともに救済に当たらせたほか、藩士にも応分の出金を命じ(「芸藩史」巻71)、また広く領内に呼びかけて米銀の放出を促しています(『広島県史 近世2』)。そして戦争被害を受けた田畠の年貢の減免や生活再建の支援といった被災民への本格的な救助・支援の問題は、9月の停戦以降にまで持ち越され、明治初年に到るまで広島藩政に重くのし掛かることとなりました。


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引用史料は便宜上読み下し文または口語文に改めました。


〈参考史料・参考文献一覧〉

「芸藩史」(マイクロフィルム、国立国会図書館蔵)、毛利家文庫66四境戦争7「芸州口戦争記参考」(山口県文書館蔵)、同18「芸州口戦争記参考」(同)、同33「諸口戦闘報知其外」(同)、嘉屋文書(和木町教育委員会蔵)、「小瀬口戦争私記」(岩国徴古館蔵)、『修訂防長回天史』(末松謙澄、マツノ書店復刻版、1991年)、『山口県史 史料編 明治維新6』(山口県史編さん室、2001年)、『岩国市史 史料編2近世』(岩国市史編纂室、2001年)、『和木町誌稿』(末岡美胤、1980年)、『大竹市史 史料編第1巻』(大竹市役所、1962年)、『新修彦根市史第8巻 史料編 近代』(彦根市史編さん室、2003年)、『幕府歩兵隊』(野口武彦、中央公論新社、2002年)、『近世幕領の行政と組合村』(久留島浩、東京大学出版会、2002年)、『長州戦争と徳川将軍』(久住真也、岩田書店、2005年)、『長州戦争』(野口武彦、中央公論新社、2006年)、『幕末維新の彦根藩』(佐々木克編、彦根城博物館叢書1、2001年)、『広島県史 近世2』(広島県、1984年)


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