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トップページ > 組織から探す > 文化振興課 > 維新史回廊構想・維新史トピックス(第4号)

平成26年 (2014年) 8月 6日

文化振興課

 維新史回廊トピックスの第4回は、下関市にある前田砲台跡を取り上げます。

 今回紹介する前田砲台跡は、外国船の来航などにより緊張が高まった幕末期に築かれたもので、下関戦争で激戦の舞台となりました。占領された直後に、従軍写真家ベアトが撮影した写真は、多くの歴史教科書に掲載されています。〔図1〕現在は開発が進み、様子も変わりましたが、背後の山容は当時の写真と同じ姿を保っています。〔図2〕


図1 占領された前田砲台低台場(横浜開港資料館蔵)

〔図1〕占領された前田砲台低台場(横浜開港資料館所蔵)


図2 現在の前田砲台跡

〔図2〕現在の前田砲台低台場跡


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前田砲台跡の発掘調査から


■下関戦争と前田砲台

 長州藩は攘夷(諸外国の排除)の方針を固め、文久3年(1863)5月、関門海峡を通過するアメリカ・フランス・オランダの艦船に、関門海峡に沿って設置した砲台や軍艦から3度にわたり砲撃を行いました。その後、報復に遭い、6月にはアメリカ軍艦が長州藩の軍艦を砲撃して沈没させ、続いてフランス軍が前田砲台を攻撃し、破壊しました。

 さらに翌元治元年(1864)年8月、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊が集結し、関門海峡沿いの砲台に対して砲撃を行いました。前田砲台は長州藩(萩藩〈本藩〉と支藩〈長府藩、徳山藩、岩国藩〉)が攘夷じょうい戦争に備えて設置した十数カ所の砲台の中でも中心的な砲台の一つで、青銅製の大砲20門が設置され、奇兵隊総督赤禰武人あかねたけとが指揮をとり、四国連合軍と戦いました。しかし、激しい砲撃をうけて、砲台は上陸した連合軍に占領され、施設はことごとく焼き払われ、砲台に設置された大砲は、すべて戦利品として持ち去られてしまいました。この一連の攻防は、下関戦争(馬関戦争、馬関攘夷戦争、四国艦隊下関砲撃事件)と呼ばれています。


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■前田砲台跡の位置

 前田砲台跡は、下関市前田1丁目にあります。関門橋のある壇之浦だんのうらからは北東約1㎞、周防灘の西端を臨む茶臼山ちゃうすやまの西南麓にあたります。現在、国道9号に面した階段を登ったところに、「前田御茶屋台場址」(台場=砲台)の標柱が立っています。〔図3〕御茶屋おちゃやの名は、江戸時代に長府毛利家の御茶屋がおかれたことにちなむもので、この地は奈良時代の古瓦が出土することでも知られています。


図3 前田砲台跡の碑

〔図3〕前田砲台跡の碑〈右側〉(下関市前田1丁目)


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■前田砲台発掘調査の概要

 山口県教育委員会が、平成11年~14年にかけて、発掘調査を実施しました。前田砲台は、標高10mあまりに築かれた低台場と標高16mあまりに築かれた高台場の2基で構成されています。


図4 前田砲台跡調査全体図

〔図4〕前田砲台跡調査全体図(図をクリックすると大きくなります。)


(1)低台場跡

 低台場の南西部に設定した11-1・2区から、大砲を設置するために整地された平坦面(大砲設置平坦面)とその背後に一段低く掘りくぼめられた平坦面(背後平坦面)と排水溝が発見されました。〔図5〕大砲設置平坦面は地山を削り出して、平坦面を造成しています。後世の開発で削られた部分もあり、現存する大砲設置平坦面は、11-1区で南北に幅約6m、背後平坦面との高さの差約50㎝です。背後平坦面は砲弾の準備等を行う作業ヤードとみられ、底面には部分的に青灰色や灰色の粘土が堆積し、使用された当時は水がたまることもあったものとみられます。


図5 低台場南西部の大砲設置平坦面と背後平坦面

〔図5〕低台場南西部の大砲設置平坦面と背後平坦面


 11-1・2区にかけてみつかった排水溝は上幅約60㎝、底の幅約20~40㎝、深さは約80㎝あります。〔図6〕当時は木蓋を被せた暗渠あんきょで、北側から背後平坦面に流入した雨水を外部へ排水した溝と考えられます。底には、水がたまったことを示す灰色の土が堆積していました。また、11-2区南端では、大砲設置平坦面上で、東西方向の浅い溝がみつかりました。


図6 低台場の南西部で発見された排水溝

〔図6〕低台場南西部で発見された排水溝


 砲台に関係する出土品は、銃弾2発とわずかな陶磁器の破片のみでした。銃弾は、球形弾(ゲベール銃弾)1点と椎の実弾(ミニエー銃弾)1点です。

 低台場の中央部分の11-3区では、背後平坦面の底面から焼けた土がみつかりました。〔図7〕この焼けた土はみつかった状態から、砲台が焼き払われた際のものとみられます。また、東隣の11-4区でも、背後平坦面の床面で部分的に焼けた土が確認されました。


図7 低台場背後平坦面の焼けた痕

〔図7〕低台場跡背後平坦面の焼けた痕(赤く変色した部分)


 12区では、台場背後を直線的に掘り込んだ跡がみつかりました。〔図8〕みつかった掘り込みは東西方向で30m以上に及びます。掘り込み面は急傾斜面をなし、深さは約70~80㎝で、古い堆積土や地山を掘りこんで造られています。床面は南側の背後平坦面とほぼ同じ高さで、連続するものとみられます。掘り込み斜面直下では、床面上に堆積した灰色粘土中に浅い溝がみつかりました。溝は北側から流れ込んだ雨水を排水するためのものとみられます。


図8 台場造営のための掘り込み

〔図8〕台場造営のための掘り込み


 12区からは、直線的な掘り込みから約2m奥の地点で砲弾がみつかりました。砲丸は厚さ約15㎝の古い堆積土を貫いて、地山面にめり込んでおり、四国連合軍の艦船から打ち込まれたものと考えられます。〔図9〕下関戦争に従軍した金子文輔の「馬関攘夷従軍筆記」には、「前田砲台は甚だ多数の弾丸を被り…」と記されています。そのほかに椎の実弾(ミニエー銃弾)1発がみつかっています。


図9 着弾状態で発見された四国連合艦隊の砲弾

〔図9〕着弾状態で発見された四国連合艦隊の砲弾


 13-1区では、11-2区で発見された大砲設置平坦面及び背後平坦面の延長部分がみつかりました。大砲設置平坦面は、幅7m程度、背後平坦面との高さの差は約50㎝あります。11-2区で発見された大砲設置平坦面上の溝の延長部分もみつかり、浅い「コ」の字状の溝の両端部分がそれぞれ東西方向に90度近く屈折することがわかりました。位置から見て、大砲設置に関連する痕跡の可能性があります。

 12区の東側の13-3区では、12区から東に続く背後の直線的な掘り込みの延長部分がみつかりました。発見された直線的な掘り込みの長さは合わせると35mを超えます。南端近くでみつかった溝は砲台に伴う排水施設とみられます。

 さらに東側の13-4区では、11-4区の背後平坦面よりやや低い位置に背後平坦面がみつかり、南端付近に北西-南東方向の排水溝とみられる浅い溝がありました。

 14-2区では、11-2区、13-1区でみつかった大砲設置平坦面と背後平坦面間の段差の東側延長部分が発見されました。高低差は約30㎝で、大砲設置平坦面は、後に上部を若干削られたものとみられます。

 14-2区の東側に設定した14-3区では、背後平坦面の続きがみつかりましたが、大砲設置平坦面は確認できませんでした。


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(2)高台場跡

 高台場中央部の13-8区は、後の改変による影響が著しく、南端付近で高台場跡に関係するとみられる東西方向の段差がみつかったのみでした。

 中央からやや西側の14-4区では、西辺の土塁の跡がみつかりました。土塁は厚い焼けた土に覆われ、焼けた土には、炭になった板材片等が含まれ、堅く焼け締まっていました。みつかった土塁は基底部で幅3m以上、高さは30㎝弱です。土塁頂部に直線的に並べられた敷石がみつかり、この上に板塀が設置されていたものとみられます。〔図10、11〕なお、土塁の東端から約7m北東側に、土塁に平行する溝と段差がみつかりました。溝は幅40~70㎝、深さ15㎝で、段差は25㎝程度です。灰色粘土の水平堆積状況から、高台場を造る際に床面をある程度平坦に整えたことがわかります。


図10 高台場の土塁頂部に並べられた敷石

〔図10〕高台場土塁の頂部に並べられた敷石


〔図11〕 占領された前田砲台高台場(山口県文書館蔵、毛利家文庫)

〔図11〕占領された前田砲台高台場(山口県文書館蔵、毛利家文庫)


 高台場東部の14-5区では、残りは良くないものの、南側前面と北側間に地山の段差を確認しました。これは、土塁と大砲設置平坦面間の段差にあたると考えられます。14-4区と14-5区では、みつかった大砲設置平坦面に多少の高低差があり、高台場は築造の際に、西に向かって緩やかに下る地形をそのまま利用したものとみられます。

 なお、高台場跡の造成面南端部分には、現在庭の一部となっている帯状の高まりがあります。位置や高さからみて、高台場跡の土塁の一部が残ったものと考えられます。高まりは南東-北西方向に約30m強、南北方向に20m弱、高さは南東-北西方向で最大約80㎝、南北方向で最大約115㎝あります。

 高台場からは、砲台に関係する出土品はみつかりませんでした。


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■調査でみつかった銃弾・砲弾とは?

 低台場跡でみつかった鉛の銃弾3発と鉄製砲弾1発のうち、銃弾2発は椎の実形で、ミニエー銃のものとみられます。重量はそれぞれ、32.8g、32.7gで、下部の1箇所に浅い溝状の切り込みがあります。発見時には、1発の内面中空部に木栓が残っていました。もう1発はゲベール銃のものとみられる球形の銃弾です。重量は13.9gで、1箇所に径3㎜弱の小突起部があります。〔図12〕


図11 出土したミニエー銃(右)とゲベール銃の銃弾

〔図12〕出土したミニエー銃(右)とゲベール銃の銃弾


 当時、連合軍が主に使用したミニエー銃は飛距離や命中率に優れ、一方、長州藩が主に使用したゲベール銃は旧式で弾丸の装填に時間がかかり飛距離や命中率に難があったといわれています。

 砲弾は球形で、直径約20㎝、重量は21㎏強あり、換算すると45ポンド以上になります。球形で、鋳型の合わせ目とみられる細い線上の突起がみられます。信管部分には真鍮のような薄い円形の金属板を被せており、中央部は四角にくぼみ、底面には縞状の擦れた痕がみられます。信管の裏側に直径5㎜、深さ9㎜程度の未貫通の丸い穴があります。〔図13〕


図12 四国連合艦隊の砲弾

〔図13〕四国連合艦隊の砲弾


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■正確なイギリス軍の実測図

 前田砲台跡の発掘調査を行った頃、東京大学史料編纂所の保谷徹氏を代表とする「欧米史料による下関戦争の総合的研究」研究報告書が発刊されました。この報告書では、下関戦争に関わった四国(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)に伝わる関連資料が紹介されており、当時イギリス軍作成した前田砲台の実測図などがあります。


図13 イギリス軍実測図と発掘調査の照合

〔図14〕イギリス軍実測図と発掘調査の照合(図をクリックすると大きくなります。)

※ 赤色の線がイギリス軍実測図を現地に合わせて修正したもの


 このイギリス軍の実測図と発掘調査の成果を照合してみます。〔図14〕

 実測図には、海よりの南側に低台場が、北側に高台場が描かれています。低台場は、弾薬庫を挟んで、西に5門、東に1門の大砲が設置され、弾薬庫の西南に上陸用の坂道がみえます。砲台の規模は、幅80m強、奥行き約30mで、背後は水田と記されています。高台場には、東よりに大砲が4門設置され、大砲設置面の前方に設置された土塁は、南辺の中央やや西と西端の2箇所で屈折しています。砲台の規模は、幅約50m、奥行き約30mで、台場の周囲は密林と記されています。

 低台場跡で発見された主な遺構は、12区、13-3区で検出された東西35mを超える直線的な掘り込み、11-2区、13-1区及び14-2区で検出された段差、11-1・2区で検出された排水溝などです。直線的な掘り込みが、実測図の水田前面の直線部分にあたることはほぼ確実です。11-1区、13-1区で検出された西側の崖の位置を参考にして、同縮尺に合わせた実測図と遺構配置図を合成したものが図14です。背後の直線的掘り込みを合わせてみると、先の段差と実測図中の大砲設置平坦面と背後平坦面間の段差の位置はほぼ一致します。東西方向の位置も、弾薬庫東側の大砲1基を据えた平坦面の東西と現況の三角形の造成地の幅及び弾薬庫背後の平坦面から北に向かう道の位置がほぼ重なることから、ほぼ間違いないと考えられます。この低台場をもとにした合成図では、高台場の位置が大きく南に張り出すことになります。現況の高位造成地は大きな改変の痕跡はなく、イギリス軍実測図では、両者の位置関係は正確ではないと考えられます。

 このため、高台場跡については調査結果を優先して、実測図の高台場部分を切り離して照合しました。

 高台場跡で発見された主な遺構には、14-4区で検出された西辺の土塁、溝及び東側の段差、14-5区の段差、現在の庭園に取り込まれた土塁痕跡があります。14-4区でみつかった土塁は西辺の一部とみられます。これに南辺の土塁痕跡を前面の多少の崩れを考慮して合成すると、ほぼ図14の様になります。東端部がわずかに南にはみ出しますが、ほぼ現在の造成地内に収まります。背後の西から登ってくる坂道、北へ向かう曲線的な道の位置もほとんど矛盾はありません。

 なお、図14では切り離して合成した両台場間の空白部に道や等高線を書き加えました。両台場とも実測図に記された遺構は主なものに限られ、発掘調査でみつかった排水溝や小段差などは記されていません。

 照合結果から、当時のイギリス軍の測量技術の高さがよくわかりました。また、発掘調査結果と合わせて、低台場跡は直線的な掘り込み面や背後の平坦面は残りがよいものの大砲設置面の一部と土塁の大半は削られた可能性が高く、高台場跡は土塁や大砲設置面がよく遺存するものの、背後の平坦面は建物等により損壊をうけたことが明らかになりました。


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高台場の築造時期

 低台場跡は、奇兵隊が度々訓練を行ったことが文献に記されており、高台場に先行して築造されたものであることがわかります。1863年フランス軍の攻撃をうけ、低台場は占領され、破壊されました。この時には高台場はまだ築かれておらず、この方面から侵入を許したとされています(先の研究報告書に、当時フランスが作成した付近の見取図が示され、低台場のみが描かれています)。また翌年連合軍が占領した際に、フランス軍が「前年我々が破壊した砲台である」と指摘しています。したがって、1864年に本格的な戦闘に備え、低台場を修復し、短期間に高台場を築造したと考えられます。高台場は基盤が東西方向に傾斜したまま築造しており、西側土塁も極めて低く、板塀でこれを補ったとみられるなど、急造されたことがうかがえます。なお、11-3・4区や14-4区で発見された焼けた土は、史料に記載された激しい戦闘や焼き払われた様子の一端を示すものとみられます。


 下関戦争に関連した砲台跡の発掘調査が実施された例はこれまで無く、砲台の構造等を知る上でも貴重な調査となりました。今回の調査では大砲を設置した明瞭な痕跡はみつかりませんでしたが、この点は将来の調査が期待されるところです。


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■下関戦争時の双方の戦力は?

 下関戦争時、長州藩の戦力は、関門海峡沿いに設置された十数カ所あまりの砲台で、大砲は合計100門強、兵員は2,000人足らずでした。〔図15〕これに対し、アメリカ国務省文書によれば、四国連合軍の軍艦・大砲・兵員は、イギリスが9隻・164門・2,850人、フランスが3隻・64門・1,155人、オランダが4隻・56門・951人、アメリカが1隻・4門・58人で、計17隻・288門・5,014人でした。


図14 関門海峡沿いに設置された砲台跡

〔図15〕関門海峡沿いに設置された砲台跡(図をクリックすると大きくなります。)

(『馬関・鹿児島砲撃始末』(続日本史籍協会叢書)をもとに作成)


 参戦したイギリス兵の報告には、長州藩の砲台の中で前田砲台の高台場・低台場、前田の海岸部にあった州岬すはな砲台、壇浦だんのうら砲台が善戦したと記されています。前田砲台については、散弾や破裂弾が1分あたり6~8発命中するようになりようやく撤退させたとあります。また、この報告で長州藩の台場構造について、崖を背負うような海岸沿いの低地に築造したのが致命的欠陥だと指摘し、実際砲弾は、後ろの崖で跳ね返って台場内に落ちたといわれています。


■長州藩の大砲の行方は?

 下関戦争で使用された長州藩の大砲は、戦利品として連合軍に持ち去られました。その数は、イギリスの資料によれば62門にのぼります。これらの大砲の多くは、溶かされたり、紛失したとみられています。しかし、作家の古川薫氏などの熱心な探索により、参戦した各国にその一部が残されていることがわかっています(イギリス-ロンドン大砲博物館、フランス-パリのアンブリッド軍事博物館、アメリカ-ワシントン海軍基地、オランダ-アムステルダム国立美術館)。このうちフランスパリのアンブリッド軍事博物館にあった一門は、関係者の尽力により貸与のかたちで里帰りし、現在、下関市立長府博物館に展示されています。〔図16〕また、壇浦砲台が設置された関門橋付近の海沿いにあるみもすそ川公園には、筒先を関門海峡に向けた長州砲のレプリカが並んでいます。〔図17〕


図15 郡司喜平治作・荻野流一貫目青銅砲

〔図16〕郡司喜平治作・荻野流一貫目青銅砲

(フランスアンブリッド軍事博物館蔵・下関市立長府博物館保管)


図16 みもすそ川公園に並ぶ長州砲のレプリカ

〔図17〕関門海峡に筒先を向けた長州砲のレプリカ(下関市みもすそ川公園)


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■大砲はどこで作られた?

 使用された大砲の多くは萩藩の鋳物師郡司家を中心に鋳造されました。具体的には、萩松本の郡司鋳造所や沖原鋳造所、長府、小郡、萩藩江戸砂村別邸(東京都葛飾区)などで製作されました。長府博物館に展示中のアンブリッド軍事博物館の大砲には「郡司喜平治信安作」の銘があり、萩松本で郡司喜平治によって製作されたことがわかります。

 郡司家は当初和式大砲を製作していましたが、幕末期にはより性能の高い洋式大砲の製作に精力的に取り組みました。近年萩市松本の郡司鋳造所跡の発掘調査が行われ、大砲を鋳造した遺構や鋳型などがみつかりました。大砲を鋳造した遺構は、高さ4m以上のコの字形の石組みと中に設置された木組みからなり、中から砲身の鋳型の一部がみつかりました。石組みの中央に分割された筒形の砲身鋳型を積み、石組み上のこしき炉から溶かした青銅を流し込んだものとみられています。〔図18〕現在、遺構は隣接地に移築復元され、大砲のレプリカも設置され、史跡公園として整備・公開されています。〔図19〕


図17 大砲鋳造想像復元図

〔図18〕大砲鋳造想像復元図(内山雅司画)


図18 復元された大砲鋳造装置

〔図19〕復元された大砲鋳造装置(萩市椿東)


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《参考資料》

山口県教育委員会編集発行『前田茶臼山遺跡』「山口県埋蔵文化財調査報告」第187集、2003

ダイヤグラムグループ編『武器』マール社、1982

横浜開港資料館編集発行『F.ベアト幕末日本写真集』、1987

芳賀徹ほか『ワーグマン素描コレクション 下』岩波書店、2002

日本史籍協会編『馬関・鹿児島砲撃始末』続日本史籍協会叢書 東京大学出版会、1979

原剛『幕末海防史の研究 全国的にみた日本の海防態勢』名著出版、1988

西ヶ谷恭弘編『国別城郭・陣屋・要害台場事典』東京堂出版、2002

保谷徹ほか『「欧米史料による下関戦争の総合的研究」研究報告書』平成10-12年度科学研究費補助金 基盤研究(C)-(2)課題番号10610319、2001年3月

下関市立長府博物館編集発行『東アジアの中の下関-近世下関の対外交渉』、1996

『定本奇兵隊日記 上』マツノ書店、1998

下関市文書館編『資料 幕末馬関戦争』三一書房、1971

下関市史編修委員会『下関市史資料編Ⅳ』下関市、1996

古川薫『わが長州砲流離譚』毎日新聞社、2006

萩博物館編集・発行『幕末長州藩の科学技術-大砲づくりに挑んだ男たち-』、2006

山口県教育財団・山口県埋蔵文化財センター編集発行『郡司鋳造所跡』、2002


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