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トップページ > 組織から探す > 文化振興課 > 維新史回廊構想・維新史トピックス第5号

平成26年 (2014年) 8月 6日

文化振興課

 みなさんこんにちは。維新史回廊トピックスの第5号は、四境戦争しきょうせんそう(第二次長州征伐)~小瀬川口の戦い・その3~として、戦端を開くきっかけとなった事件の真相をさまざまな史料から追ってみました。

 彦根(今の滋賀県)からはるばる長州まで来て、戦いの中で命を落としたのはどのような人だったのでしょうか。

 解説は、山口県史編さん委員会明治維新部会の上田専門委員です。


◆四境戦争(長州戦争)~小瀬川口の戦い・その3~◆


4. 異郷の地に眠る~彦根藩士の墓~

○彦根藩一番手木股隊使番の最期

 和木町歴史資料館には、小瀬川口の戦いにおける一場面を再現した展示があります。登場人物は寺社浪人や在郷の強壮者で結成された岩国藩の団兵戢翼団しゅうよくだんの隊長品川清兵衛しながわせいべえと、彦根藩一番手木股土佐隊きまたとさたい使番つかいばん竹原七郎平たけはらしちろうべい、6月14日未明小瀬川をはさんで両軍が対峙たいじし、まさにこれから戦闘が開始されようという緊張の場面です。はじめに、その時の状況を藤田葆ふじたしげる「小瀬口戦争私記」から紹介しましょう。

 夜まさニ明ケ、北岸ニハ敵多数真黒ニ見ユ、其中ヨリ紅ノ陣羽織ヲ着ケタル武者一騎、従者二人ト先陣進ミテヱイ々々声ヲカケ、鞭ヲ振テ川ニ入リ已ニ半ニ及ントス、我地竹林中ニ伏シ居タル戢翼団兵ニ、今ゾ機発ナリト団長ヨリ打ヨノ号令発スル否、百銃斉発シケレバ、忽彼武者ノ胸板ニ中リ、馬ヨリ逆ニ落タリ、従者一人モ同ク丸ニ中リ倒レ水ニ流ル、一人ハ跡ニ逃去レリ、団長品川清兵衛ハ彼武者ノ首切落シ、其陣羽織ニ包ミシガ、姓名ハ木牌ニ木股隊彦根使番竹原七郎平トアリ、首級ハ直ニ城下ニ馳遣シ、兵局ニ出ス、途上味方大勝々々ト呼ハリ行ケリト云(割註 首級実験スミテ後獄門、室木水ノ浦に埋ム)(『岩国市史 史料編二近世』所収)


竹原七郎平徒渉地点の碑(和木町)

竹原七郎平徒渉地点の碑(和木町)


 夜のまさに明けなんとするころ、小瀬川をはさんで対岸の大竹村にひしめく敵兵の中から、戦場における井伊家のシンボルカラーである赤い陣羽織を着けた武者一騎が、二人の従者じゅしゃとともに小瀬川を渡ろうとします。半ば程まで達した時、品川清兵衛が指揮する戢翼団の筒先が一斉に火を吹き、騎馬武者と従者1人は忽ちにして銃弾に斃れ、もう一人は引き返してなんとか難を逃れることが出来ました。

 品川はその武者の首を切り落として陣羽織に包み、岩国城下の兵局へ送ります。品川に討たれた人物こそ、和木町歴史資料館に品川と向かい合って立つ竹原七郎平でした。

 この「小瀬口戦争私記」は、藤田が「吉川有恪公略伝」をはじめ、毛利家における維新史編纂事業の成果や諸記録・古老の懐古談等から、文久期より四境戦争に至る原因・経過を抜き出してまとめたもので、幕末期の岩国領周辺の動向を知るには格好の史料と言えます。しかし、その成立は大正2年(1913)11月と、四境戦争から実に50年近い年月が経過しており、歴史的事実の確認のためには、典拠となった史料に立ち返って内容を検証する必要があります。幸いこの竹原の戦死については、ほぼ同時代の史料がいくつか残されていますので、以下にそれらを紹介しつつ、その状況を検証してみましょう。


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○彦根戦死士之墓

 停戦が成立した慶応2年(1866)の秋、品川重助(清兵衛)が主葬者となって、和木町安禅寺に「彦根戦死士の墓」が建立されました。その墓碑には、次のように刻まれています。

 これ彦根人の墓、何をもってこれを表す、その勇をよみするなり、大竹の役、幾兵水を隔ててならぶ、天未だ明けず、東軍砲撃すること数回、我が兵ふるいてまさに戦わんとす、長官某曰く、未だなりと、既にして三人流れを乱し、衆これに継ぐ、某曰く、可なりと、銃発して敵散ず、ただ三人奮いてすすみ、共に干丸にたおる、その一は木牌をぶ、曰く木股隊使番竹原七郎平、その一は牌無し、而して戎装は七郎平と類す、その一は流れて海に入る、実に六月十四日なり、東軍既に敗れ、獲るところを検じ、聞くところに拠るに、その彦根人たるを知る、乃ち遺骸を収めてこれを和木安禅寺に合葬し、石を立てて以て表して云う、嗚呼国を去ること千里、衆に先んじて不測の地に入り、遂にその主のために死す、あに敵をもってその美を没めんや、この墓を過ぐる者は、それ感じるところあらん。

 原文は、「小瀬口戦争私記」の中にも収録されており、撰文は岩国大草暢、書は二宮懋に成ります。


彦根戦死士之墓(和木町安禅寺)

彦根戦死士之墓(和木町安禅寺)


 冒頭でまず彦根藩士の勇を称え、次に河畔に身を潜め指揮官の指示を待つ戢翼団の様子から、開戦、敵兵の動向、3人の戦死と墓碑建立に至るまでの経過を述べ、最後は、遠く異郷の地で戦死した彦根兵を称える言葉で締めくくられています。

 この墓碑銘は戦死した彦根藩士の追悼を目的とすることから、そこには聊かの誇張や文学的表現が含まれていることは否めません。しかし、停戦後間もなく建立されていること、また一方の当事者である品川が建立に関与していることから、被葬者に関する情報については、信頼性が高いと判断されます。

 それによると、戦死者の数は竹原ともう1人それに類する軍装のもの、すなわち同程度の身分の武士、そして海へ流された1人の計3人となり、前掲「小瀬口戦争私記」引用の内容とは異同が出てきます。この安禅寺の墓には、竹原ともう1人の武士が合葬されたようです。兵局へ差し出され、曝された後室木水ノ浦へ埋められたという首級の行方については、残念ながら明らかになりません。そして、木牌を身に付けていなかったため姓名不明のまま葬られたもう1人の武士は、「小瀬口戦争私記」が成立する頃には、既に歴史の中に埋没してしまっていたようです。


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○もう1人の被葬者

 竹原とともに葬られたもう1人の武士について、彦根藩の記録からそれを探ってみましょう。

 彦根藩が6月25日に幕府へ提出した14日の戦闘状況報告書には、開戦時の模様が「軍整列の上、天朝より仰せ出だされ候趣申し合わせとして、使番竹原七郎兵衛(ママ)・曾根佐十郎差し越し、小瀬川渉り越し候ところ、賊勢防州脇村并八幡山より大小砲打ち掛け候」と述べられています(『新修彦根市史8』)。彦根勢は全軍整列した後、長州側へ朝廷からの降服勧告書を伝達しようと、使番竹原と曽根佐十郎を派遣したのですが、これに対し長州側が砲撃を加えたため、戦闘が始まったと説明されたのです。

 ここから、竹原とともに戦死した姓名不明のもう一人の武士は、同じく木股隊使番の曽根佐十郎であったことが判明します。竹原は120石、曽根は70石と、共に彦根藩井伊家中の中級家臣に属します。2人が務める使番という役は、騎馬で一隊の先頭に立って進み、使者として敵陣に赴くほか、時に斥候せっこうを兼ね、敵情視察などの任に当ります。

 彦根藩はまた、14日戦闘の際の死傷者を幕府に報告していますが、他の戦死者が「討死」とのみ記されたのに対し、竹原と曽根の両名だけは、名前を列記した上に「敵方へ使いとして参り、帰り申さず候」と記しています(同前書)。軍使を討ち取ることは、当時の軍法に照らしても不適切な行為であるという観念が一般的でした。そこには軍使を打ち取った長州軍への非難が込められているのかもしれません。


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○第3の戦死者

 安禅寺に葬られた2人の武士についてはその姓名が確定出来たわけですが、前掲二点の引用で共に遺体が流されたと記されるもう1人の戦死者については、残念ながら他に手がかりは見つかっていません。井伊家はこの日の戦死者として、足軽や陪臣ばいしん(家臣が召し抱えた家来)も含めて10人の姓名を幕府へ届け出ています。しかし、その中には該当するとおぼしき人物が見当たりません。この第3の戦死者について、演繹えんえき的な方法になりますが、もう少し考えてみましょう。

 ここでは前掲「小瀬口戦争私記」で、竹原が2人の従者と共に川を渡ろうとした、と記されている点に着目したいと思います。

 近世の軍団編成においては、主人である武士とその従者―中間ちゅうげんというのが、最小の戦闘ユニットでした。この中間は、農村から徴発されたり都市部の日用ひよう層から雇用されたりしたものが多く、馬の口取りや槍・鉄砲などの道具持ちを勤め、元来は非戦闘員という位置付けでした。竹原や曽根が、このような中間を従者として召し連れて敵陣に赴こうとしたことは、十分に考えられます。もっとも、前掲「小瀬口戦争私記」に見える2人の従者が、共に竹原の従者であったかどうかは分りません。曽根もまた、相応に従者を従えていたと考えるのが妥当でしょう。

 これら武士が各自で召し連れる非戦闘員の従者については、藩が把握する戦死者の中に含まれていない可能性があります。長州側の史料に見える征長軍の被害と、実際に征長軍諸藩が届け出た戦死者数との間には乖離があるような印象を受けますが、それはこのことと関係があるのかもしれません。


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○彦根藩使番銃撃の真相

 小瀬川口の戦いは、彦根藩からの軍使に戢翼団兵が銃撃を加えたことが戦闘開始の合図となったわけですが、では命令を下した品川は、竹原と曽根が軍使であると認識していたのでしょうか。

 これについて、吉村藤舟の「芸州口戦記」には、「山口政堂の調書では、完く使者とは思わなかったが、彼を打ちとつて、其身體を改めた時、懐から征討の勅允文と幕府の降服勧誘文とが出たので、初めてそれが使節であるということを知つたと云ふことである」との記述があります。しかし、ここで参照されている山口政(事)堂の調書というのが、管見の限りでは見つかっていません。

 それとは別に、開戦当時の模様を目撃していた第三者の証言がありますので、次にそれを紹介しましょう。

 慶応3年(1867)12月に、大竹村組頭精次郎が割庄屋わりじょうや和田吉左衛門へ提出した「戦争已来長防運ヒ合諸駈引応答御注進書附」という報告書の中に、同村長百姓おさびゃくしょう弥三右衛門が見分した合戦の次第として、次の記述があります。

 官軍先陣の内二人、猩々しょうじょう緋羽織を着シ、軍扇を開き封書を差上け、川中央まで押し渡り候所、岩国勢より小筒を打懸け、折柄関ケ浜村妙見山より大砲五ヶ所、瀬田村寺ヶ原山より同二ヶ所、和木村八幡山より三ヶ所大砲・小筒間もなく打懸け、跡返しいたし候所頻りに小筒打駈け、終ニ二人共打伏し首ヲ取候(『大竹市史 史料編1』)


彦根藩一番手木俣土佐隊使番竹原七郎平

彦根藩一番手木俣土佐隊使番竹原七郎平像(和木町歴史資料館)


 ここから、竹原と曽根は、軍扇を開いて封書を高く掲げ、軍使であること明示して川を渡ろうとしていたことが窺えます。しかし中ほどまで渡ったところで岩国側からの銃撃を受け、それを合図に三方からの砲撃が始まり、二人は引き返そうとしますが、執拗な銃撃を受け、終には撃ち落とされて首をとられてしまったということです

 しかしこの証言から、品川が2人を軍使と認めていたということは出来ません。戦闘開始は未明のことでもあり、岩国側から見て彼らが軍使であると正しく判別できたか否かは疑問の残るところです。

 またこの史料からは、竹原等2人の最期についても、前掲墓碑銘に記された「独三人奮いて前み、共に干丸に斃る」という様子とは違っていたことが窺えます。軍使として敵陣へ赴いた武士たちとその従者は、そこへ到達することなく銃撃されるとは思っていなかったのかもしれません。

 このように異なる立場から記された複数の史料をつき合せていくと、一点一点の史料を見ていただけでは分らない状況が見えてきます。それと共に、作成者の立場や意図によって、その内容が少しづつ違ったものになっていることにもお気付きいただけたのではないかと思います。

 ここで参考までに、品川やその配下の様子を窺わせる史料を一点紹介したいと思います。Vol.2でも紹介した近江八幡在住の西川吉輔にしかわよしすけが書き留めた風説留ふうせつどめ「吉介翁自筆見聞雑記」((滋賀大学経済学部附属史料館寄託、真崎文庫、資料提供山口県史編さん室)の同年7月22日条には、渋谷俊造より聞いた話として、捕虜となった彦根藩士の話が書き留められています。

 北川篤之丞の息寛之進は、14日の戦闘の際退却に遅れて長州軍に捕らえられ、身分を農兵と偽って品川清兵衛の陣所へ連行されました。その際品川は、「御互に武門の習、勝敗は時運にあり、聊か以て恥辱となすに足らず、時に今朝よりの戦争に、各空腹なるへし、陣中の事故麁末なれ共、酒食を振舞うべし、遠慮なく喫せらるべし」と捕虜たちを労い、また陣所に屯集している人々も「何れも丁寧深切、応接の言語など至て謙退せり、畢竟虜に対せるにあらさるが如し」であったといいます。

 同史料中には品川清兵衛の名前が正しく記載されています。伝聞情報ですから多少の誇張はあるかもしれませんが、品川とその配下(戢翼団)はこのように品位ある軍団であるという情報が、彦根城下から発信されていったのでした。


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○彦根藩士の塚

 小瀬川界隈にはもう一基、首塚と呼ばれる「彦根戦士の塚」があります。装束農民団兵柏屋寿三郎に討ち取られた彦根藩士只木次郎右衛門ただきじろうえもんを弔ったものです。

 只木は井伊家臣団の中でも比較的高禄の250石を給された武士で、二番手戸塚左太夫隊に属していました。岩国市弥勒寺の境内に建てられた案内板には、次のように記されています。


彦根戦士の塚(岩国市弥勒寺)

彦根戦士の塚(岩国市弥勒寺)


彦根戦士の塚説明板

彦根戦士の塚の説明板


 彦根戦士の塚

 慶応2年(西暦一八六六)六月、四境の役、大竹口の戦にて安芸の国油見村において装束農民団兵柏屋寿三郎に打ち取られた彦根藩士只木小五郎(当時二十九才)の首級は、時の村役人嘉屋慶太郎によって当寺に懇ろに葬られ、この碑が建立された。

 当時十六才の寿三郎は、やがて大阪相撲に投じ文明の力士名にて活躍し三役まで進んだ後、年寄として巡業中、丹波の国福知山にて病死したとのことである。

 爾来星霜一百二十余年、塚は昭和二十年秋の風水害によって流され損じたが、苔むした碑面に残る文字が今も昔を物語っている。

 首塚に 紅梅 ひそと 咲き 初むる

 慶太郎はその彦根藩士の塚に碑文を刻して曰く

この彦根藩何某、丙寅六月十四日大竹之役に勇戦自殺ス、これ忠なり、嗚呼称嘆せざるべからざるなり、碑を建て以て美名を後世にのこすものなり

嘉屋慶太郎政重建之


 只木が属した戸塚隊は、三番手河手主水隊と共に油見村において三方を長州軍に包囲され、苦戦を強いられました。只木戦死の状況について、管見の限りでは他に史料が確認できていません。彦根藩井伊家家臣団の禄高や来歴を綴った『侍中由緒帳』(彦根城博物館)には、「同年(慶応二年)六月一四日、於芸州、討死仕候」と記されているのみです。案内板では名前が小五郎となっていますが、これは次郎右衛門の跡を継いだ倅の名前と取り違えられた可能性があります。

 この只木戦死の情報は、はじめ不名誉な風聞として彦根へ伝わったようです。前掲「吉介翁自筆見聞雑記」には、早くも6月20日条に大鐸子一からの情報として、「二〇〇石唯木鑵蔵外ニ一人脱走す、其故不詳」の記事が出てきます。鑵蔵とは、次郎右衛門の父の名前です。戦場の混乱で戦死が誤って脱走と伝えられたのでしょう。

 油見村で討たれた只木の首級は、それを討ち取った寿三郎の出身村まで持ち帰られ、そこで埋葬されました。禄高250石を食む堂々たる武士が、農兵に首級を取られるというその最後は、四境戦争における征長軍と長州軍の軍事力の質的差異を象徴しているといえるのかもしれません。



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 ※ 史料引用に際しては、便宜上読み下し文に改めました。



〈参考文献〉


毛利家文庫66四境戦争7「芸州口戦争記参考」(山口県文書館蔵)、同18「芸州口戦争記参考」(同)、同33「諸口戦闘報知其外」(同)、「吉介翁自筆見聞雑記」((滋賀大学経済学部附属史料館寄託、真崎文庫、資料提供山口県史編さん室)、「小瀬口戦争私記」(岩国徴古館蔵)、『修訂防長回天史』(末松謙澄、マツノ書店復刻版、1991年)、『山口県史 史料編 明治維新6』(山口県史編さん室、2001年)、『岩国市史 史料編2近世』(岩国市史編纂室、2001年)、『増補改訂和木町誌稿』(末岡美胤、1980年)、『大竹市史 史料編第1巻』(大竹市役所、1962年)、『新修彦根市史第8巻 史料編 近代』(彦根市史編さん室、2003年)、『広島県史 近世2』(広島県、1984年)、『侍中由緒帳 六』(彦根市教育委員会、1999年)、吉村藤舟『芸州口戦記』(郷土史研究会、1937年)、『近世幕領の行政と組合村』(久留島浩、東京大学出版会、2002年)、『幕末維新の彦根藩』(佐々木克編、彦根城博物館叢書1、2001年)、『近世幕領の行政と組合村』(久留島浩、東京大学出版会、2002年)


今回ご紹介した中で出てきた資料については、下記の資料館等でご覧いただけます。

○ 小瀬口戦争私記

☆収蔵施設  岩国徴古館

☆住所    山口県岩国市横山2-7-19

☆電話    0827-41-0452

☆開館時間  9時から17時まで(ただし、入館は閉館30分前まで)

☆休館日   月曜、祝日(ただし、月曜日が祝日の場合はその翌日)、年末年始


○ 彦根藩一番手木俣土佐隊使番竹原七郎平像

☆収蔵施設  和木町歴史資料館

☆住所    山口県玖珂郡和木町瀬田 鉢ヶ峰総合公園山管理棟2階

☆電話    0827-52-3751

☆開館時間  9時から17時まで(ただし、入館は閉館30分前まで)

☆休館日   月曜、祝日の翌日、年末


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