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トップページ > 組織から探す > 文化振興課 > 維新史回廊構想・維新史トピックス(第6号)

平成27年 (2015年) 5月 28日

文化振興課

 みなさんこんにちは。維新史回廊トピックスの第6号は、平成19年(2007)9月15日から12月16日まで、萩博物館において開催されました松下村塾開塾150年記念展「長州男児の肝っ玉 ~松門四天王と桂小五郎~」で初公開された「吉田松陰先生絵伝」をご紹介します。

 解説は、萩博物館の道迫真吾どうさこしんご研究員です。


収蔵資料探訪(萩博物館)

吉田松陰先生絵伝

形状 折本・帙入り、タテ21.1cm×ヨコ30.3cm

作成 明治時代後期~大正時代


■松下村塾の開塾150年

 本題に入る前に、平成19年(2007)が「松下村塾開塾150年」とされる理由を説明しましょう。

 松陰は安政4年(1857)11月24日の夜、赤間関(下関)付近を周遊していた塾生の松浦松洞しょうどうに宛てて書いた手紙の中で、

「久保氏の新塾は果して本月五日を以て開けり」

と述べています(「丁巳幽室文稿」中「松浦無窮に与ふ」、『吉田松陰全集』4巻所収)。

 ここで松陰は、実家の杉家宅地内にあった小舎を改修して得た八畳1室の塾舎を、「久保氏の新塾」と記していますが、このことは松陰が幽囚ゆうしゅう中であったことに関係しています。つまり、名義上は松陰の外叔の久保五郎左衛門くぼごろうざえもん主宰しゅさい者としていましたが、実質は松陰が新設した松下村塾を指しているのです。

 そして、「本月五日」とあるのは、安政4年11月5日ということですから、これをもって開塾日と見なしているわけです。

 ところで、塾の創始者は、厳密には松陰の叔父の玉木文之進たまきぶんのしんです。しかし、一般的には、松下村塾といえば吉田松陰が主宰したものを指しますので、安政4年から150年目の平成19年が、「松下村塾開塾150年」ということになります。


松下村塾〈萩市椿東)

松下村塾(萩市椿東松本)


 ただし、ここで注意しておきたいことが数点あります。それは、松陰がまだ杉家の幽囚室で過ごしていた安政3年(1856)3月に、「塾生第1号」とも呼べる高洲滝之允たかすたきのじょうらに対して『孟子』の講義を行い始めていることや、「四天王」の一人に数えられる吉田稔麿としまろの入塾日が同年11月25日とされることなどです(海原徹『吉田松陰と松下村塾』)。

 これによって、松陰が塾舎に移る前から、すでにその門を叩く者が続出していることがわかります。したがって「開塾150年」というのは、松陰が新しい松下村塾の塾舎に移ったことだけを根拠にしているというのが実情です。

 このようにあいまいな点の多い松下村塾ですが、おもな動向を簡単にまとめると次のようになります。

 安政3年3月、松陰は杉家の幽囚室において高洲らへの指導を開始。〔事実上の開塾〕

 安政4年11月、八畳1室の塾舎に移転。その後、さらに塾生が増えたため十畳半の部屋の増築を開始。

 安政5年3月、増築完成。

 安政5年7月、長州藩が正式に松陰の家学教授を公認。

 安政5年12月、藩が松陰を野山獄に投じたため、塾での指導に終止符。


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■吉田松陰先生絵伝

 さて、この「絵伝」は、明治時代に長崎造船局の初代局長を務め、松陰門下最後の生存者としても知られる、渡辺蒿蔵こうぞう(1843~1939、在塾時の氏名は天野清三郎)の曾孫である渡辺寛氏から、平成16年(2004)に萩市に寄贈されました。松下村塾ゆかりの人物の子孫により今日まで伝えられたこの資料が、「開塾150年」という節目の年に初めて世に出るのは、真に意義深いことといえるでしょう。

 「絵伝」を描いたのは、名は不明ですが、蒿蔵の実兄で「奇陳」と号した人物です。蒿蔵に「小五郎」と称する兄がいたことは間違いありませんので、同一人物かとも考えられますが、現時点ではそれ以上のことはわかっていません。なお、「絵伝」には15枚の絵が収められていますが、蒿蔵の兄が描いたのは13枚で、最後の2枚については、のちに蒿蔵の娘の八百やおが描き足しています。

 体裁としては、ほぼA4判のサイズで折本の状態になっており、ちつに納められています。描かれた時期は定かではありませんが、昭和元年(大正15年、1926)に蒿蔵が絵伝の序文を認め、

「家兄奇陳居士、かつて松陰伝を読みて感激し、の状態を描写するをあたはず」

(原漢文)と述べています。これにより、絵心のあった兄が、塾に実際に学んだことのある弟の蒿蔵から様子を聞きつつ、描いていったであろうことは想像に難くありません。

 なお、昭和16年(1941)には、蒿蔵の嗣子の世祐よすけ跋文ばつぶんを記しています。


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■絵伝の内容

 「絵伝」では、松陰の誕生から刑死後まで、15の主要な場面が描かれています。目次は以下のとおりですが、目次の順番と実際に収められた順番とが異なる場合は、実際の順番を優先しています。また、カタカナは平仮名へ改め、場合により、〈 〉内には私が適宜語句を補いました。

第一、誕生(是は山家の景)〈生家〉

第二、幼年素読を受る所〈音読稽古〉

第三、撃剣〈剣術稽古〉

第四、御前講〈御前講義〉

第五、硯を買ふ所〈赤間硯〉

第六、平戸葉山・山鹿を訪ふ

第七、江戸脱邸〈脱藩して東北遊歴〉

第八、下田〈米国密航計画〉

第九、獄〈野山獄中で読書〉

第十、松下塾〈松下村塾の講義風景〉

第十一、江戸へ出発〈東送の幕命〉

第十二、江戸白州〈評定所で死罪宣告〉

第十三、骨ヶ原〈小塚原回向院墓所〉

第十四、若林〈遺骨を改葬〉

第十五、村塾書庫・県社〈萩の松陰神社〉

 このようにビジュアルに示された松陰絵伝、それも、当時の空気を肌で感じ取ることのできた人物によって描かれたものは、私の知る限りではほかに例を知りません。そうした希少性という意味だけでも、この「絵伝」はたいへん貴重な資料ということができます。しかし、もっとも重要なのは、渡辺蒿蔵らの関係者が残した、松陰及び松下村塾にまつわるエピソードを視覚的に補うことができるという点にあると考えられます。


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■松下村塾の講義風景

 それでは、絵伝の中からいくつか紹介していきたいと思いますが、まずは、松下村塾での講義風景からみていくことにしましょう。


第十、松下塾〈松下村塾の講義風景〉

第十、松下塾〈松下村塾の講義風景〉


 講義の様子については、これまでは古文書やエピソードから推測するしか方法がなかったのですが、「第十、松下塾」によれば、左上に描かれた松陰が塾生全員の方を向き、塾生同士が対面式に机を並べて座っていることがわかります。また、屋外には農作業を行う姿をした塾生が見え、右上には米き場が描かれています。

 実際、塾での活動に関して、蒿蔵がどのようなエピソードを残しているかというと、次のようなことを述べています(「渡辺蒿蔵談話第一」、『吉田松陰全集』10巻所収)。

・先生の講説は、あまり流暢にはあらず、常に脇差を手より話さず、之れを膝に横たへて端坐し、両手にてその両端を押へ、肩をそびやかして<割注―元来痩せたる人故に肩の聳ゆるは特に目だつ>講説す。

・其の間、運動にとて一同外に出で、草を取り、又米を搗く等のことあり。

・先生の坐処定まらず、諸生の処に来りて、そこにて教授す。

 これらを勘案すると、松陰がただ一方的に講義を行うのでなく、塾生一人ひとりのそばへ次々に移りながら手とり足とり教え、また時には、運動と称して屋外にまで教育活動が及んだことがわかります。さらには、絵に示された様子から推測すると、対面に座った塾生同士が議論を行っていたであろうことがうかがえます。

 このように、蒿蔵が残したエピソードと「絵伝」、そして現存する松下村塾の塾舎を総合すれば、歴史的なイマジネーションを行うことが可能になってきます。要するに、「絵伝」は、現存する実物とエピソードとの間をつなぐものであり、また、それらを検証するための手がかりとしても活用することができるのです。


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■生家

 次にとり上げたいのは、松陰の生家を描いた「第一、誕生」です。


第一、誕生(是は山家の景)

第一、誕生(是は山家の景)


 松陰自身、「樹々亭じゅじゅてい」「山宅さんたく」などと呼んだこの場所は、現在、萩市の史跡に指定されていますが、建物は現存していません。現地には、当時の間取りを示す旧宅の敷石が、後に住んでいた人物の記憶により復元されていますが、三畳の玄関に六畳2間、三畳2間と台所、それに別棟の納屋と厩という質素な建物であったとされています(『萩の文化財』)。


吉田松陰生家跡

吉田松陰生家跡(萩市椿東椎原)


 このように、敷石や文章などで推測するしかなかった松陰の生家も、「絵伝」によってかつての姿を思い描くことができます。茅葺かやぶき屋根で、いかにも狭いという印象を受けますが、「樹々亭」という呼称のイメージ通り、樹木に囲まれた自然豊かな場所であったことがうかがい知れます。

 ちなみに、ここに松陰が生まれたのは天保元年(文政13年、1830)8月4日です。この年の干支が寅でしたので、松陰は「虎之助」と名づけられました。


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■剣術稽古

 次は、「第三、撃剣」によって、松陰にはあまりイメージのない剣術稽古の様子をみてみましょう。


第三、撃剣

第三、撃剣〈剣術稽古〉


 松陰といえば、学問の人というイメージが強いのですが、文武両道が重んじられた長州藩の気風のなか、武術の稽古をまったくしなかったわけではないようです。ただし、柳生新陰流の剣術師範であった平岡弥三兵衛に入門を申し込みはしたのですが、学問のほうが優先されたため、ほとんど剣術の稽古をする暇がなかったというのが実情でした。

 ちなみに、松陰は平岡から、剣術の稽古に時間を割く暇があるなら学問を高めるために時間を使いなさい、というような注意を促されたというエピソードも残っています(福本椿水『松陰余話』)。


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■赤間硯

 最後に、「第五、硯を買ふ所」、「第十五、村塾書庫・県社」をみてみましょう。

 松陰は二十歳の嘉永2年(1849)6月から7月にかけ、藩命により長州藩の日本海沿岸の防備状況を巡視します。行程の一部は松陰の「廻浦紀略かいほきりゃく」(『吉田松陰全集』9巻所収)という日記により判明しますが、石州(島根県)境から赤間関(下関)まで見聞したとされています。

 その際、赤間関で名産の硯を求めたことが、松陰の手紙からわかります。


第五、硯を買ふ所

第五、硯を買ふ所〈赤間硯〉


 この手紙は「永訣の書」と呼ばれるもので、松陰が処刑される1週間ほど前の安政6年(1859)10月20日付けで、父杉百合之助ゆりのすけ・叔父玉木文之進・兄杉梅太郎に送ったものです。この手紙には、

「私首は江戸に葬り、家祭には私平生用ひ候硯と、去年(十一)月六日呈上ていじょうつかまつり候書とを神主と成され候様頼みたてまつり候。硯は己酉の七月か、赤間関廻浦の節買得せしなり、十年余著述を助けたる功臣なり」

というくだりがあります(『吉田松陰全集』8巻所収)。

 文中、「己酉」というのは嘉永2年を指します。松陰はこの手紙で、赤間関で買って以来、十年余り愛用してきた「功臣」すなわち硯を、神体(霊代)として祭ってほしいと父らに頼んだのです。

 実際、杉家ではこの松陰の願いどおり、明治23年(1890)に松下村塾舎の改修を行ったさい、松陰が愛用した硯と松陰の書とを土蔵に祭ります。こうして私祠として営まれたものが萩の松陰神社の起こりで、松下村塾に学んだ伊藤博文や野村靖らが神社を公に創立しようとする運動を起こし、明治40年(1907)、松陰神社が県社として設立されました。


第十五、村塾書庫・県社

第十五、村塾書庫・県社〈萩の松陰神社〉


 ちなみに、平成19年(2007)10月10日の夜に、松陰神社のご神体が、仮安置されていた松門神社から、本殿のほうへとおごそかに遷座せんざしたという報道があったのをご記憶の方もあると思います。このご神体こそ、松陰が愛用した硯なのです。


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■おわりに

 以上、「絵伝」の一部を画像で見ながら、それにまつわる史料やエピソードをご紹介しました。時代の変遷とともに、「革命家」「思想家」「教育者」などと、様々に語られてきた吉田松陰ですが、私は博物館の職掌上、特に小中学生に対して、松陰のことを説明する機会が多く、どのように伝えたらよいのか迷っていました。そうした時、まずはこの「絵伝」から入ってもらえば、子供たちにも親しみをもって、松陰や松下村塾について勉強してもらえるのではないかと考えるようになりました。

 しかしながら、まだまだ調査・研究が不十分でありますので、皆さんの間でも実際に「絵伝」を細かく観察してゆけば、思わぬ発見につながることがあるかもしれません。

 なお、今回ご紹介した「絵伝」については、先般、展覧会に合わせて刊行した萩博物館編『松下村塾開塾150年記念 吉田松陰と塾生たち』(松下村塾開塾150年記念誌出版委員会発行)という図録に、15場面全てを収録しています。ご関心のある方は、ぜひ、萩博物館ミュージアムショップ(0838-25-6447)にお問い合わせください。


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◇主要参考文献

山口県教育会編『吉田松陰全集』全十巻・別巻一(大和書房、1972~74年)

福本椿水『松陰余話』(山口県人会、1965年)

山口県立山口博物館編『維新の先覚 吉田松陰』(1990年)

海原徹『吉田松陰と松下村塾』(ミネルヴァ書房、1990年)

山口県教育会編『松陰と道』(山口県教育会、1991年)

海原徹『松下村塾の人びと』(ミネルヴァ書房、1993年)

『萩の文化財』(萩市、2005年)


◇萩博物館のご案内

 所在地:山口県萩市堀内355番地

 電話:0838-25-6447

 開館時間:9時~17時(入館は16時30分まで)

 休館日:なし

 入館料:大人500円、高校・大学生300円、小・中学生100円(20名以上の団体2割引、障害者2割引)

 ホームページ:萩博物館ホームページ (別ウィンドウ)


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