このページの本文へ移動

ここから本文

トピックパス
トップページ > 組織から探す > 文化振興課 > 維新史回廊構想・維新史トピックス(第7号)

平成26年 (2014年) 8月 6日

文化振興課

維新史回廊トピックス〈Vol.7〉


 今回の維新史回廊トピックスは、山口県防府市にある毛利博物館に所蔵されている史・資料の紹介を交えながら、天皇家と毛利家の関係を中心に幕末維新史を考えてみたいと思います。天皇家と密接な関係にあった毛利氏。そしてそれが維新史にどのような影響を与えたのでしょうか。

 解説は、毛利博物館の小山良昌館長です。

天皇と毛利家。そして明治維新


■天皇家と毛利家の関係

 天皇と毛利家の関係を示す資料として、毛利博物館は、天皇の宸筆しんぴつ(天皇直筆の文書)や下賜品を数多く所蔵しています。また、下賜品以外で天皇との関係を象徴的に示すものとして、毛利家には紋所である定紋じょうもん(一文字三つ星)・替紋かえもん沢瀉おもだか)のほかに、正親町おおぎまち天皇から下賜されたと云われている菊紋と桐紋があります。全国的に見ても、菊紋を紋所として所有する家は皇族以外では数は少ないのです。


毛利家家紋(左から一文字三つ星、沢瀉)

毛利家の家紋(左から一文字三つ星、沢瀉)


 そもそも、毛利家の系図を辿ってみると、源頼朝のブレーンとして京都から鎌倉幕府に招聘された公家の文章道を家学とした大江広元に至ります。その広元の先祖は奈良帝ならのみかどと呼ばれた平城へいぜい天皇の御子阿保あぼ親王です。すなわち、毛利家の家系は皇統に連なっていたのです。このため、江戸時代には大名が直接朝廷と接触することは勿論、入京についても幕府によって厳しく制限されていましたが、毛利家だけは特例として入京が許されたので、三條河原町に京都藩邸を造り、歳末歳首の品物の献上も、天皇に近侍する伝奏家の勧修寺かじゅうじを通じて容易に行っていました。

 こうした背景から、毛利家は、伝統的に朝廷に対する崇敬の念が強く、時には経済的支援も含めて朝廷を支援しており、また、朝廷からも信頼され、信任されてきた経緯がありました。したがって、幕末の激動期に、藩主毛利敬親たかちかが一貫して尊王の立場で行動していることは当然のことであったのです。

 このトピックスでは、天皇家と毛利家の関係を中心にして、毛利博物館が所蔵している朝廷に関わる幕末維新関係の資料を紹介し、毛利家・長州藩に関わる幕末維新史をご紹介します。


△ページの先頭にもどる



■孝明天皇からの密勅

 幕末期、当時の孝明天皇は外国に対する根強い反感を持っていたと云われています。安政5年(1858年)6月、大老井伊直弼いいなおすけが天皇の勅許を得ぬまま日米修好通商条約を結ぶと、幕府は長州藩に対し、朝廷への表玄関とも云うべき摂津国兵庫一帯の海岸警衛を命じています。

 その様な世相の最中、同年8月、朝廷から藩主毛利敬親に宛てて一通の密書が届きました。この密書は天皇側近の議奏中山忠能ただやす・三條実愛さねなるが孝明天皇の内意を奉じたもので、敬親に対して「国中騒動の兆しあり、心中密かに深く苦悩す、もし急変があれば、機に応じて速やかに内裏の警衛に任ずべき『天下の忠臣』を毛利に期待する」旨の内容でありました。いわゆる「戊午南呂初五密勅ぼごなんりょしょごみっちょく」と称される勅書です。外国に対する反感に加え、幕府が天皇の意志を無視する形で日米修好通商条約を締結したことにより、危機感を抱かれた孝明天皇が、以前から信任の厚い毛利家に『天下の忠臣』を求めて密書を下賜されたものでした。(戊午拝勅会議図)


戊午南呂初五密勅

戊午南呂初五密勅(毛利博物館蔵)


戊午拝勅会議図

戊午拝勅会議図(毛利博物館蔵)


△ページの先頭にもどる



■長州藩の周旋

 長州藩では、既に「天朝に忠節、幕府に信義、祖先に孝道」の朝廷と幕府を共に重視する三藩是(藩の方針)を決定していましたが、この密勅に応えて新たに時局の収拾に乗り出しました。長州藩では朝幕間を周旋して両者の協調を図ることを藩の方針とし、それを進めた長井雅楽うたは、文久元年(1861年)藩主に建白書『航海遠略策』を提出します。建白書は、朝廷が国の大方針を決定し、幕府はその朝廷の命令を受けて全国の大名に号令を下す、また、進んで海外へ進出して皇威を世界に輝かすことが真の攘夷である、とする内容で、理路整然とした開国論であり、公武合体策でもありました。

 藩はこの策を藩是と決定し、藩主慶親は長井雅楽に朝幕間の周旋を命じます。長井は先ず上京して三條実愛に建白書の趣旨を説明したところ、孝明天皇は「胸懐の雲霧がはじめて晴れた。早く海外へ押しかけて皇国の武威を発揮したいものだ」と全面的に賛意を表され、策の成果を大いに期待されました。敬親も同年10月には上洛し、天皇へ国俊作の短刀を献上したところ、天皇からは特に所用しておられた「月扇」など扇3本を賜りました。この「月扇」は天皇に近侍する公家でも容易に下賜されない代物と伝えられ、公武周旋に対する天皇の篤い心情を示す下賜品でもあったのです。


孝明天皇拝領月絵扇子

孝明天皇拝領月絵扇子(毛利博物館蔵)


△ページの先頭にもどる



■公武合体から攘夷へ

 万延元年(1860年)3月、強権政治を行っていた大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されると、徳川幕府は政策の転換を行い、老中の安藤信正は公武合体策を推進し、同年12月、孝明天皇の妹君である皇女和宮の将軍家茂いえもちへの降嫁を決定しました。この決定は尊王攘夷派の運動に火を付け、東禅寺事件や生麦事件など攘夷運動はますます高まり、文久2年(1862年)安藤は坂下門外において襲撃されてしまいます。

 長州藩内における攘夷運動の急先鋒は、吉田松陰の思想を受け継いだ久坂玄瑞らでした。久坂らは公武合体策である航海遠略策を進める長井の排斥に立ち上がり、暗殺まで考えていました。やがて、孝明天皇のお考えも、「今後は攘夷の方向で朝幕間を周旋せよ」へと変わったのです。

 その結果、文久2年7月、藩主敬親は京都藩邸に重臣を集め、苦渋の選択をしています。すなわち、これまでの藩是であった航海遠略策を取り止め、幕府が推進した外国との条約を破棄し、天皇のご意向に沿った「破約攘夷」を藩是と決定し、攘夷実行の方針を藩内に諭告しました。そして、同年閏8月、重臣益田弾正、高杉小忠太、周布政之助らを近衛関白邸に派遣し、朝廷においても攘夷を確定するように進言したのです。その結果、朝廷は長州藩主の意向に応えた形で攘夷の方針を発表しました。


△ページの先頭にもどる



■孝明天皇の期待

 文久3年(1863年)1月3日、朝廷に参内した世子せいし毛利定広ただひろ(後の元徳もとのり)は、孝明天皇から天盃と御衣、御太刀(津田越前守助広)を賜りました。ついで、参内を促された藩主敬親は、同17日鷹司たかつかさ家より譲与された冠袍を着て参朝し、小御所に於て天顔(天皇)を拝し、天皇から天盃を賜い、次いで廊下に於いて御太刀(波平安周作)を拝受し、別室の虎の間において参議に推任する宣旨を受け取りました。このように、毛利氏父子に対する天盃や太刀の下賜、あるいは幕府の意向を無視する形で参議に任じて公家の一員並に推薦された裏には、天皇が忠臣毛利氏に対して特に期待する所が大きかった故であったと思われます。


御太刀(津田越前守助広作)

御太刀(津田越前守助広作)(毛利博物館蔵)


御太刀(波平安周作)

御太刀(波平安周作)(毛利博物館蔵)


 特に毛利父子に対して天皇自ら「御太刀」を下賜された行為は、古来、戦に出陣する征夷大将軍などの軍の最高指揮官に対し、指揮権の象徴として天皇が自ら刀を付与する「節刀せっとう」の制度がありますが、孝明天皇のこの「御太刀」の下賜は「節刀」に相当する行為であったとも考えられました。それまでの毛利家は、「三藩是」や「公武合体」を藩是として推進し、朝廷・徳川幕府の両者ともに重視の政策を取っていましたが、旧年7月の「破約攘夷」を藩是として以降、毛利家は朝廷寄りの立場に立ち、敬親父子に対する天皇の「授太刀」行為により、外観はともかく内心では幕府と袂を別ち、攘夷派としての立場を強めていった、と考えられるのです。


△ページの先頭にもどる



■攘夷祈願の行幸

 文久3年2月、世子定広は関白鷹司邸に伺い、前右大臣鷹司輔煕に対し攘夷祈願のために京都加茂神社への天皇の行幸を建言(意見を申し立てること)し、ついで学習院に家臣を派遣して、石清水八幡宮への行幸も建言しました。朝廷がこれら長州藩からの建言を受けて、京都加茂神社・石清水八幡宮行幸を決定すると、行幸に供奉するために将軍家茂に上洛を命ぜられ、毛利家にも供奉沙汰書が届きました。


攘夷祈願に付供奉沙汰書

攘夷祈願に付供奉沙汰書(毛利博物館蔵)


同年3月11日、加茂神社行幸の当日、世子定広は衛士卒を率いて京都藩邸を出発し、行幸を先導する形で扈従こじゅう(付き従うこと)しました。この加茂神社行幸は、天皇の鳳輦ほうれん(行幸のときの乗物)に従う形で将軍徳川家茂が随従しており、行列を拝観する朝廷贔屓の京都の人々は、改めて天皇と将軍の主従関係について思いを致し、皆感泣して、口々に毛利家の発起による行幸であるとして称え、毛利家の声望が高まったのです。その反面、関東から上京して行幸に参列した将軍にとって、この随従は屈辱そのものでした。鎌倉時代以来、将軍は武家の棟梁として長年にわたって武家政権を存続させてきましたが、行幸に随従して参列する屈辱に耐えきれず、4月に再度行われた石清水八幡宮への行幸の際には、将軍家茂は病気を理由に参列を取りやめ、後見役の一橋慶喜が随従しています。

 この長州藩が発案した行幸における将軍の随従は、武家政権の前途を暗示する象徴的な出来事でもあったのです。

 尊王攘夷運動が日々強まるなか、朝廷の強い督促に応えて、徳川将軍はやむなく攘夷の奉勅を列藩に布告し、ついで、攘夷の期限を文久3年5月10日と定めます。朝廷から攘夷の期日を知らせる勅書が届くと、長州藩内では攘夷期限決定の降勅および幕令を藩内に布告し、警戒令を発すると共に、下関海峡(関門海峡)の要衝に構築していた砲台を整え、攘夷の決行に備えたのでした。


攘夷期限伝奏書

攘夷期限伝奏書(毛利博物館蔵)


 △ページの先頭にもどる



■攘夷の決行

 文久3年5月10日、長州藩は攘夷の期限を厳守し、下関海峡において外国船に発砲を加え、攘夷を決行しました。最初はアメリカの商船、次いでフランスの軍艦、オランダの軍艦と相次いで外国船を攻撃し、全国の各藩中では唯一、長州藩だけが攘夷を決行したのです。

 この決行は日ならずして山口の藩庁即ち藩主敬親へ達し、直ちに朝廷・幕府へも報告されました。この長州藩による攘夷戦争の実態は、初戦こそ勝利を収めたかに見えましたが、第3次のオランダ軍艦には反撃を受け、報復のために来航した第4次のアメリカ軍艦、第5次フランス軍艦には攻撃を受けて下関海峡の長州陣砲台は破壊され、一部フランス兵の上陸を許す結果となっがのです。


△ページの先頭にもどる



■奇兵隊結成

 この攘夷戦での危機に際し、藩主敬親から下関防衛を一任されたのが、藩のエリート官吏で将来を嘱望されていた高杉晋作でした。指名を受けた高杉は急遽下関へ急行し、同年6月7日、豪商の白石正一郎宅において奇兵隊結成綱領を作成しました。高杉は馬関防衛に当たる軍隊の結成について、「有志の者の集まりだから、藩士、陪臣ばいしん、軽卒を選ばず同様に交わり、専ら力量を貴ぶ堅固な隊を作る」ことを目的に、士農工商人を問わず、志をもった力量ある人物本意で採用することとし、新しい形の軍隊である奇兵隊を結成しました。


奇兵隊結成綱領(毛利博物館所蔵)

奇兵隊結成綱領(毛利博物館蔵)


 この奇兵隊命名の由来は、「少ない兵力で敵の虚をつき、神出鬼没、敵をなやまし、常に奇道をもって勝ちを制するのが目的である。したがって、奇兵隊と命名する」と述べ、今で云うゲリラ兵をもって自任しようとしていたのです。この奇兵隊の結成を皮切りに、同年末までに遊撃ゆうげき隊、荻野おぎの隊、八幡やはた隊、集義しゅうぎ隊、義勇ぎゆう隊、膺懲ようちょう隊などの諸隊が続々と誕生しました。これら諸隊は、その後藩の旧体制を打破する先兵としての役割を担い、討幕運動にも参加し、維新回天事業に大きな役割を果たすこととなったのです。


△ページの先頭にもどる



■攘夷決行に対する朝廷や幕府の反応

 長州藩が苦戦を強いられている詳報が朝廷にもたらされると、朝廷では長州藩を激励する監察使正親町少将を山口に下向させ、「期限を誤らず直ちに攘夷を決行した長州藩に対し、天皇は大変お喜びになっておられる」と云う内容の攘夷の褒勅をもたらしました。その後、監察使は下関の戦地を巡視し、兵士を督励して帰京しています。


攘夷の褒勅(毛利博物館所蔵)

攘夷の褒勅(毛利博物館蔵)


 一方、攘夷戦からやや日を置いた7月、幕府の詰問使きつもんし中根一之丞ら一行8人が、幕府軍艦朝陽丸に乗って下関に到着し、長州藩の外国艦砲撃についての詰問書を提出しました。幕府がいうところの「攘夷」とは、「外国船が海岸を劫掠ごうりょくし、畿内に闖入ちんにゅうの程も測り難き候」として、外国船が無法を働いた場合には攘夷を行え、程度に考えていたのです。したがって、長州藩が突然、無防備の外国船を攻撃して攘夷を決行した行為は詰問に値し、詰問使を派遣したのです。


攘夷発砲に付尋問書(毛利博物館所蔵)

攘夷発砲に付尋問書(毛利博物館蔵)


 これに反発した長州藩では、壮士達が詰問使一行を次々に殺害・暗殺し、最後に残った詰問使中根のほか2人を、三田尻中関沖の舟中にて殺害してしまいました。また、中根一行を輸送した幕府の軍艦朝陽丸を壮士達が抑留していましたが、幕府の報復を恐れた藩では、世子毛利定広を派遣して、壮士達に朝陽丸の解放を説得しましたが説得に応じず、最後は藩士の吉田稔麿としまろが説得に当たってようやく朝陽丸を解放したのです。


△ページの先頭にもどる



■文久3年の政変から第一次長州征伐へ

 攘夷の褒勅を下賜され、天皇の信任が厚いと信じていた長州藩にとって、文久3年8月18日の政変は正に青天の霹靂へきれきでした。長州勢は京都から追放され、三条実美さねとみをはじめとする長州寄り攘夷派の公家の七卿は長州に向けて下向しました(七卿都落ち)。長州藩内ではこの政変は天皇の誤解に基づいた行為であるとして、天朝に対する雪冤せつえん(無実であることを明らかにする)運動が起こり、君側くんそく奸臣かんしん(会津・薩摩藩)を除くための京都進発論が高まって、元治元年(1864年)7月、福原越後、益田右衛門介、国司信濃に率いられた京都進発軍が京都御所の蛤御門はまぐりごもんの変をおこし、逆に大敗北を喫してしまいました。その上、御所に向けて発砲したかどにより長州藩は逆に朝敵とされ、朝廷により長州藩追討の命が幕府に下り、幕府による第一次長州征伐を誘引したのです。

 驚いた長州藩内では、幕府に対して「謝罪恭順」を表明する俗論派(保守派)が藩政を牛耳り、京都へ進発した3家老や参謀4人に切腹を命じて責任を取らせ、幕府・朝廷に対して謝罪をしました。


△ページの先頭にもどる



■維新回天と第二次長州征伐

 この俗論派政権に反旗を翻したのが高杉晋作で、同年12月下関功山寺で挙兵するや、奇兵隊など諸隊とともに大田おおだ絵堂えどうに進み、藩の正規軍と戦ってこれを破り、俗論派政権を追放して藩論を「武備恭順」の討幕路線へと導いたのです。

 この長州藩の変節に対し、徳川幕府は慶応元年(1865年)第二次長州征伐を決定し、西国32藩に長州への出兵を命令したのですが、多くの藩ではその命令を不服として出兵には消極的でした。そのため、第二次幕長戦争(長州では四境戦争と云う)は慶応2年(1866年)6月になって漸く開始されたのです。その間、同年1月には長州藩と薩摩藩の間に軍事同盟(薩長同盟)を結んで幕府に対抗したこともあって、戦況は長州藩優勢の内に推移しました。一方、戦争最中の7月には将軍家茂が逝去し、同年12月にはわずか36才の若さで孝明天皇が崩御されるなど、政治的な混乱が続き、幕府も戦争の継続は困難として止戦を告示し、10月には幕軍の撤兵が完了して長幕間の和議が成立しました。


△ページの先頭にもどる



■討幕、そして明治政府樹立へ

 慶応3年(1867年)10月14日、突如徳川将軍慶喜は大政の奉還を朝廷に申し出て、翌15日朝廷はそれを受け入れました。薩長同盟以後、密かに討幕運動が進展する中での将軍の表明でしたが、奇しくも同じ10月14日、討幕派は薩長両藩主に宛てた徳川慶喜追討の勅書及び会津・桑名両藩追討の密勅を入手しました。


討幕の密勅(毛利博物館所蔵)

討幕の密勅(毛利博物館蔵)


 この幕府(慶喜)追討密勅は、正親町三条実愛より薩摩藩主宛の密勅は薩摩藩士大久保利通へ、長州藩主父子に宛てた密勅は長州藩士広沢兵助(真臣さねおみ)に手渡され、それぞれの藩主の元へ届けられました。この勅書の形式は異例で、天皇の直筆では無く、勅旨伝奏の中山忠能・三条実愛らの花押(署名の一種)もないもので、受理した当初からこの勅書は偽勅ではないかとする偽勅書説があったのです。そのためか、毛利・島津両家ではこの原本を長く秘し、学会に公表されたのは昭和になってからでした。しかし、この密勅が真勅・偽勅いずれであろうとも、この勅書が下されると、薩長両藩の主導による討幕運動は本格化し、山口では岩倉具視の命により錦御旗にしきみはたの製作が行われました。そして、その錦御旗を掲げた討幕軍は、慶応4年(1868年)1月鳥羽・伏見の戦から翌年の北海道函館五稜郭ごりょうかくの戦にかけて、国内統一に向けた戊辰戦争行い、勝利しました。

 同3年12月、朝廷は「王政復古の大号令」を発し、江戸幕府を廃して政権を朝廷へ移すことを宣言し、新たに総裁・議定・参与の三職を設置して、神武創業のはじめに復することを新政の理想として掲げ、明治天皇が践祚せんそ(皇位を継承すること)されました。ここに260年余存続した江戸幕府が崩壊して、近代国家・明治新政府が誕生したのです。


△ページの先頭にもどる



■明治政府樹立後の朝廷と毛利家

 明治2年(1869年)2月、勅使萬里小路までのこうじ卿が山口に到り、藩主毛利敬親に宛てた天皇宸翰しんかん直垂ひたたれ1領を下賜されました。宸翰の趣旨は、徳川幕府が倒れ、急遽新生日本丸の舵取りを任された明治天皇が、「日夜寝食を忘れて政治の舵取りに携わっているが前途は多難である。ついては、我が臣毛利敬親よ。私の手足となり、私の不足するところを補い、皇業が成り立つように私を助けて欲しい」という上京・扶助依頼の宸筆でした。当時弱冠18歳の明治天皇が、人材や財源が不足する新政府において、新生日本を建設するに当たり毛利敬親に扶助を求めた宸翰で、毛利家に対する厚い信頼によるものでした。しかも、贈られた萌葱もえぎ地小葵文様のある直垂は侍従以上の者が着用する礼服で、天皇がわざわざこの直垂を届けられた裏には、言外に「この直垂を着用して参内し、朕を扶助せよ」の意味が込められていたのです。

 この宸翰を受け取った毛利敬親は直ちに上京し、3月3日拝領した直垂を着用して参内し、親しく明治天皇に拝して天盃を賜わりました。そして、毛利家中興の祖である毛利元就が正親町天皇の即位式料を献上した故事に倣い、備荒貯蓄金百万両の内から大金70万両を新政府に献上・扶助したのです。


明治天皇宸筆勅書(毛利博物館蔵)

明治天皇宸筆勅書(毛利博物館蔵)


萌葱地小葵文様直垂(毛利博物館蔵)

萌葱地小葵文様直垂(毛利博物館蔵)


 同2年1月、薩長両藩主の主導のもとに、薩長土肥4藩主が版(土地)と籍(人民)を朝廷に感応する旨の建白書を提出・許可されると、ほとんどの藩主がこれに倣いました。


版籍奉還御沙汰書(毛利博物館蔵)

版籍奉還御沙汰書(毛利博物館蔵)


 同年6月、新政府は藩主を改めて藩知事に任命し、同4年(1871年)には廃藩置県を断行して藩をなくし、中央集権の実を挙げるために旧藩主を東京に集めて勝手な帰郷を禁じました。毛利家の江戸屋敷は、すでに第一次長州征伐の際幕府に没収・破壊されていたので、新たに品川の高輪町にある総面積1万7千坪の旧久留米藩邸地を下賜され、同5年(1872年)には高輪(常磐)邸を新築して本拠としました。

 その翌6年(1873年)5月、突然、明治天皇が新築間もない常磐邸へ、お供人数63名と共に行幸されたのです。そして、その年の11月には皇后・皇太后の行啓も予定され、常磐邸では行啓当日両陛下をお待ちしていたところ、途中の葵坂で皇后陛下のお召し馬車が転倒したため引き返され、改めて、翌7年(1874年)5月、皇后、皇太后がお供人数67名と行啓されたのです。天皇・皇后に加え皇太后様までが、新築祝を兼ねて臣下の邸宅をわざわざ行幸啓され、しかも、品川までの遠路を来臨されたことは、当時としても異例中の異例な出来事であったのです。


東京・高輪(常盤)邸

東京・高輪(常盤)邸


 毛利元就以来、朝廷に対する崇敬の念が篤く、一貫して尊王の立場で行動し、幕末維新の激動期を乗り越えて明治維新を迎えた毛利家にとって、この度の行幸啓は、永年にわたる毛利家の苦労に報いる朝廷からの格別な配慮であり、勤王毛利家にとってはこの上ない喜びであったことと思われます。


△ページの先頭にもどる



■毛利博物館のご案内


毛利博物館


 毛利博物館は、元々、旧毛利藩主毛利氏の防府本邸として建設されました。旧藩士であった維新の元勲井上馨によって、現在の地への建設が決められたといわれており、大正5年(1916年)に完成しました。

 その後、昭和41年(1966年)明治百年を記念して、毛利家から寄付を受けて財団法人防府毛利報公会が設立され、翌昭和42年(1967年)、本邸の一部を改造し、毛利博物館として累代の文化的・歴史的資料を一般公開することとなりました。

 毛利博物館には、毛利氏伝来の平安時代以降の史・資料、総数約2万点が所蔵されており、その中には、四季山水図(山水長巻、雪舟筆、国宝)など国宝4件、重要文化財9件のほか、明治維新関連の歴史資料としても重要なものが数多くあります。そのほか、主に藩政に関する文書数万点が山口県文書館に寄託されており、「毛利家文庫」として公開されています。

 毛利博物館では、平常展のほか、1年を通じて様々な企画展が開催されています。特に毎年11月には、「四季山水図」をはじめ、館蔵の国宝・重要文化財を中心に展示する特別展「国宝」が開催されますので、ぜひ一度足をお運びください。


◇所在地:山口県防府市多々良1丁目15‐1

◇電話:0835-22-0001

◇開館時間:9時から17時30分まで(10月から3月までは17時閉館、入館は30分前まで)

◇休館日:12月22日から12月31日まで

◇入館料:大人700円、小・中学生350円(特別展を除く)20名以上の団体1割引

◇URL:http://www.c-able.ne.jp/~mouri-m/


△ページの先頭にもどる



 △維新史回廊構想協議会のホームページにもどる



お問い合わせ先

環境生活部

閉じる