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平成26年 (2014年) 8月 6日

文化振興課

維新史回廊トピックス〈Vol.8〉


 今回の維新史回廊トピックスは、これまでとは少し趣を変えて、「幕末期萩藩の政治機構」と題し、幕末期の萩藩で中級武士たちが重要な役割を果たすことができた理由を、その政治のしくみから読み解いていきます。

 解説は、山口県史編さん委員会明治維新部会の上田専門委員です。

幕末期萩藩の政治機構


■幕末萩藩における藩政実権の掌握者

 幕末の萩藩では、藩政上、重きをなした人物として、村田清風むらたせいふう坪井九右衛門つぼいくえもん周布政之助すふまさのすけ椋梨藤太むくなしとうた木戸孝允きどたかよし広沢真臣ひろさわさねおみなどが有名です。これらの人物は皆、禄高が150石前後以下の大組(八組とも)と呼ばれる「階級」を出自とする、いわゆる中級武士たちでした。

 しかし、藩主を頂点に、家格・禄高によって厳格に序列化された萩毛利家家臣団のなかで、中級武士たる彼らが何故、重要な役割を果たすことが出来たのでしょうか。

 この問題を解く鍵は、実は近世期を通じて徐々に整備・拡充されてきた萩藩の政治機構、近世の武士たちが身を置いた近世的な官僚機構のなかにあります。


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■萩毛利家家臣団の「格付け」と「役職」の関係

 近世初頭、大名家の家臣団はまさに軍事組織として編成されていました。そこでは武士たちが、軍事組織内での地位に相応しい家格・禄高を与えられ、序列化されていました。

 しかし、徳川幕府の下で国内の平和が実現し、武力の行使が停止されると、武士の果たすべき職分は、戦闘者としてのそれよりも、治者とりわけ行政官としてのそれが重きをなすようになります。藩領統治・藩政運営のための機構がしだいに整備されていくと、それに対応する家臣団が形成されていきました。

 毛利家編輯へんしゅう所に勤務していた時山弥八が大正5年(1916)に上梓した『稿本もりのしげり』には、萩毛利家家臣団内の「階級」やその由来をまとめた「旧長藩士卒階級一覧表」と、藩主側近の諸役から始まって、軍事・行政組織上の諸役、奥向や江戸・京・大坂の各藩邸に関わる諸役、明倫館をはじめとする学校関係の諸役等々、大小併せて六一〇の役職を一覧にまとめた「旧長藩職役一覧表」が収載されており、家臣団と職制の概要を知ることができます。

 萩毛利家の家臣たちは、一門を筆頭に永代家老・寄組・手廻組・物頭組・大組・船手組・遠近付・無給通等々、全部で七〇の「階級」に編成され、この「階級」と禄高・俸給とによって格付けされ、序列化されていました。そして、その格付けに応じた役務を果たす義務を負います。その対応関係は「旧長藩職役一覧表」のなかに「就職階級」という項目で記載されています。

 図表1は、その両者の対応関係の概要をまとめたものです。ここには比較的上級の武士が軍事司令官・指揮官に就任し、中・下級武士が行政上の諸役に携わるという傾向がはっきりと現れています。「就職階級」は、役職上の上下関係と、家臣団内部の格付け・軍事組織としての指揮命令系統との間に矛盾をきたすことがないよう設定されていたのでした。


萩毛利家家臣団の格付けと役務の対応関係


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■萩藩で中級武士たちが活躍できた理由

 このような、萩毛利家家臣団の「就職階級」の機構が運用されていく過程で、特定の役職については、その職掌・権能が、個々の武士の家臣団内部における格付けを越えて、藩政に対する影響力を強めていく、という状況が生まれていきます。それら特定の役職者群を、萩藩では「政府」と呼んでいました。

 萩藩には、この「政府」と呼ばれる集団が二つあります。一つは江戸当役(行相とも呼ばれる)の配下に組織された江戸方政府(行相府)と呼ばれる官僚集団、もう一つは当職(国相とも呼ばれる)の配下に組織された地方政府(国相府)と呼ばれる官僚集団で、図表2はその組織図です。


萩藩の2つの「政府」


 江戸当役は藩主の参勤交代に随行して藩地と江戸とを往復し、幕府・諸藩との応接から大組士以上の進退黜陟ちゅっちょく(功の有無により、官位を上げ下げすること)に至るまで、藩主の決裁が必要な案件を総監します。当職は国許にあって金穀出納・租税収納をはじめ藩内の行政全般を担任します。江戸当役・当職はともに、藩初は家老の中でも権勢の劣った役職でしたが、次第に力を持つようになり、併せて両職と呼ばれ、幕末期には、藩政改革・国事周旋事業を推進する中心となって活躍しました。

 この両職の下で、関係事務を処理し諸政策の起案等を担ったのが用談役・手元役以下の諸役で、「政府」「政府員」とも呼ばれる一方、両職の「付属の面々」あるいは「被官」などとも呼ばれています。幕末に活躍した村田清風や周布政之助といった人物がその辣腕を揮ったのは、この「政府」中の用談役や手元役あるいは右筆役という役職に在職している時でした。


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■○ 「政府」のなかの「就職階級」について

 この「政府」諸役の「就職階級」を一覧にまとめると、図表3のようになります。


「政府」の「就職階級」


 江戸当役の参謀たる用談役、両職を補佐する手元役は250~200石以下の大組士から、諸政策を起案し諸役人の進退・諸士以上の褒貶賞罰を審議する顕職である江戸方右筆役も150石以下大組士からの任用です。地方右筆役には江戸方ほどの権限はありませんが、50石以下遠近付士からも登用されることになっています。

 江戸方・地方の会計を預かる矢倉頭人・蔵元両人役、財務担当の用所役・所帯方も250~120石以下、家臣団への軍役その他の課役の分配を担当する遠近方も150石以下の大組士です。

 これら「政府」の「就職階級」と、他の主な役職のそれとを比べてみると、図表4のようになります。こうして見てみると、「政府」諸役の「就職階級」は、1,000石以上の大身から40石まで、幅広い階層からなる大組の中でも、比較的禄高の低い層に設定されていることがわかります。これは、1,000石以上寄組士が両職に就任した際、同格あるいはそれに近い階層の武士がその部下となったのでは、格付けの問題から心情的に命令に従い難いというので、250石以下の大組士を両職の部下として附属させる機構が整っていったためと考えられています。


「政府」と主な役職の「就職階級」


 しかし、この両職の職務を手元役が代行するようになり、また右筆役以下がその実務を担うようになったことから、「政府」諸役人が藩政の実権を掌握していると指摘される状況が生まれていきました。二五〇石以下の中級武士たちは、藩政が展開していくなかで力を付けた両職の権限の下に、「政府」の構成員となることによって、より上位の武士たちをも凌ぐ影響力を藩政上に発揮することが出来たのです。


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■「政府」へ登用された人物

 この「政府」諸役への就任が、「就職階級」によって規定されている250石以下の大組士も、出仕後直ちに「政府」の役職に就くわけではありません。その「政府」に入るまでの職歴を、周布政之助の事例で見てみましょう。


周布政之助肖像画


 周布は文政6年(1823)3月23日に生れ、父と兄を相次いで亡くし同年12月に周布家を相続します。その際151石余のうち72石を没収されて、68石余(外に10石余減少石)の知行が認められました。

 長らく明倫館で勉学に励んだため、初めて官途に就いたのは25歳の時です。弘化4年(1847)9月に蔵元役所の管轄する金穀出納を監査する蔵元検使の暫役(見習)となり、翌嘉永元年(1848)6月には本役に進みます。さらに12月明倫館検使役となって明倫館再興に携わり、同2年(1849)明倫館諸生の取締役である明倫館都講役を経て、嘉永3年(1850)4月地方右筆唐船方の添役(見習)に栄転し、「政府」に加わることとなります。唐船方とは外国船防備等担当の掛りで、地方右筆役が兼務する慣例でした。

 このように、会計から教育に関わる役職を経て「政府」に入った周布ですが、これは当時としては非常に早い昇進であると言えます。他の多くの大組士たちは、さらに長い期間蔵元検使役や江戸方大検使役を務め、また各宰判の代官役に就いて行政経験を積むなどして累進し、その中から「政府」へ登用されるエリートが選別されていきました。近世的な官僚機構にあっても、「就職階級」を同じくする役職の中にはいくつかの昇進コースがあり、それが武士たちのモチベーションを高める役割を果たしていたのでした。

 さて、周布はその後も嘉永4年(1851)11月には江戸右筆添役に栄転し、一時、異賊防禦手当惣奉行いぞくぼうぎょてあてそうぶぎょう毛利隠岐の手元役を務めますが、嘉永6年(1853)9月には江戸方右筆役へ、安政元年(1854)12月にはさらに手元役の御用に参与が命じられるなど、確実にキャリアを重ねて行きます。

 その間、嘉永6年のペリー来航に際して、幕府がアメリカ大統領の親書を開示し、諸大名の意見を徴した際には、当時江戸方右筆添役であった周布が、毛利家からの答申案を起草しています。この幕府からの諮問という形で諸大名に開かれた幕政―国事への参加の道は、行政官僚としてエリートの道を歩んできた周布ら「政府」諸役人にも、幕末の政局に関与する道を開いていったのでした。

 この後周布をはじめ「政府」諸役人は、藩内の政策対立によって進退黜捗を繰り返します。また藩政機構そのものも、幕末の政局を乗り切るための職制改革を断行することになりますが、それらについてはまた次の機会にお話したいと思います。


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