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トップページ > 組織から探す > 文化振興課 > 維新史回廊構想・維新史回廊トピックス第9号

平成26年 (2014年) 8月 6日

文化振興課

維新史回廊トピックス〈Vol.9〉


 今回の維新史回廊トピックスは、明治維新百四十年を記念して、平成20年12月14日(日曜日)まで開催されている企画展「長州と薩摩」と連携して、長州藩と薩摩藩が融和・協調して明治維新の実現に向かうまでの段階である、元治元年(1864)の「禁門の変」に至る両藩を取り巻く歴史過程を紹介します。

 解説は、下関市立長府博物館の古城こじょう春樹主任です。。

「長州と薩摩」‐融和・協調までの過程‐


■薩長両藩の中央政局への参入過程

 ペリー来航以降、諸藩は、攘夷じょうい・開港・公武合体といった諸問題を抱える江戸・京都の政局に、直接的な参入を企図し、積極的な活動を展開していきます。


ペリー艦隊の砲丸(下関市立長府博物館蔵)

ペリー艦隊の砲丸(下関市立長府博物館蔵)


 長州藩では、安政五年(1858)に定めた「藩是はんぜ三大綱」(「朝廷に忠節」・「幕府に信義」・「祖宗には孝道」)に従い、また、孝明天皇の密勅みっちょく(「戊午南呂初五ぼごなんりょはつごの密勅」)を受けて、文久元年(1861)3月、公武合体の推進と開国を容認する「航海遠略策こうかいえんりゃくさく」を藩是とし、中央政局への参入を図っていきました。

 元々長州藩は、「即今そっこん攘夷」を主張していたのですが、開国が既成事実となった今、ただ闇雲に「攘夷」を叫ぶよりも、朝幕融和のもと君臣秩序を明確にして国内一和を図り、進んで海外に進出して皇威を世界に示そうと方針を転換したのです。

 長州藩士の長井雅楽うたが提唱した同策は、公武周旋と外交問題を同時に解決する現実的なもので、朝廷も幕府も非常に興味を示しました。

 しかし、長州藩内部では久坂玄瑞くさかげんずいらの攘夷派による反対運動が繰り返され、さらに文久二年(1862)5月には、孝明天皇が攘夷の意向を示したため事態は変わります。

 同策をもって朝幕間を周旋していた長井は失脚し、藩是は「破約はやく攘夷」に一転、以後、長州藩は京都を中心に強硬な攘夷運動を展開していくこととなったのでした。

 一方、薩摩藩も、先年亡くなった藩主島津斉彬しまづなりあきらの遺志を継いで、文久2年2月に「天朝に忠勤」「事変の際には率兵上京」という藩是を定め、中央政局への参入を進めていきます。

 同年4月には、薩摩藩国父の島津久光ひさみつが千名の兵を従えて上京し、五摂家の筆頭で縁戚関係のある近衛このえ家を通じて「公武合体」「公威伸興」「幕政変革」を柱とした諸提案を朝廷に働きかけ、次いで6月には、勅使大原重徳おおはらしげとみを奉じて江戸に下り幕府に対して国政全般の改革実施を要求します。


幕府への勅諚三箇条(玉里島津家蔵・黎明館寄託)

幕府への勅諚三箇条(玉里島津家蔵・黎明館寄託)


 その結果、幕府は久光の意見を採用し、また、朝廷も久光に京都守護職就任の内命を下すまでに至りました。

 しかし、この間、京都では過激な攘夷論者によるテロが繰り返され、その圧力により朝廷内では攘夷強硬派の公家の発言権が増大、久光の京都守護職就任の話は立ち消えとなり、また、朝廷権威の強化・確立や、過激な攘夷論者の排除といった、久光が描く改革の実施も、困難な状況となったのでした。



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■長州藩と薩摩藩の対立

 文久3年(1863)7月、京都の政局は、長州藩の攘夷に協力しなかった小倉藩の処分問題と、天皇が自ら諸侯を率いて攘夷を行う「攘夷親征」を巡って激しく揺れ動いていました。

 勿論、攘夷急先鋒の長州藩は、小倉藩への厳罰と「攘夷親征」の実施を望んでいたのですが、長州藩と小倉藩の内乱を危惧し、或いは、朝廷が武家の領域に踏み込む事を望まない在京の諸侯は、この動きを押さえようとします。

 しかし、この頃、京都における政治の主導権は攘夷強硬派の公家が握り、彼らと意を通じる長州藩は朝廷さえも動かすほどの力を持っていました。8月4日には、国事参政ら攘夷派の公家の間で議決された小倉藩への厳罰案(藩主小笠原忠幹おがさわらただよしの官位の剥奪・所領一五万石の没収等)が岡山藩主に内達され、また、8月13日には、攘夷親征の大和行幸ぎょうこうが布告されるに至りました。天皇の意に従い行ってきた長州藩の運動が、一つずつ実を結んでいったのです。

 ところが、孝明天皇自身は、「可忌(いむべき)」公家や「暴烈」の長州藩士や、真木和泉まきいずみら「浮浪」の徒によって政治が左右されているこの状況に、危機感を抱いていました。まつりごとは天皇の思いとは別の方向に進んでいたのです。

 そこで、薩摩藩は朝廷から攘夷強硬論者を排除すべく、中川宮なかがわのみや久邇宮朝彦くにのみやあさひこ親王)や会津藩と謀って政変を企て、いわゆる「八月十八日の政変(堺町御門さかいまちごもんの変)」を決行したのでした。


八月十八日の政変(梨堂公絵巻 第3巻(梨木神社(京都市)蔵))

八月十八日の政変(梨堂公絵巻 第3巻(梨木神社(京都市)蔵))


 長州藩以外の在京諸藩に政変の決行が伝えられたのは、当日の朝のこと。京都には長州藩と同様に「破約攘夷」を標榜する藩も在ったのですが、これまで過激な攘夷論を展開してきた長州藩にくみするものはありません。在京諸藩の兵によって御所の各門は閉ざされ、長州藩は、堺町御門の警備を解任されると同時に、京都からの引き払いを命じられるに至ったのでした。

 長州藩にとっては、将に青天の霹靂へきれきともいうべき事態です。当時在京していた清末きよすえ藩主毛利元純もとずみや岩国の吉川経幹きっかわつねまさなどは、堺町御門傍の鷹司たかつかさ邸に拠って薩摩・会津藩兵と対峙し、事態の打開を図ります。しかし、その後勅使の命に従って退去、洛東の妙法院に入ったものの孤立した長州藩には為す術無く、参内を差し止められた三条実美さんじょうさねとみら七卿とともに長州へと下っていったのでした。

 なお、政変直後の8月24日に右大臣二条斉敬にじょうなりゆきらに宛てた孝明天皇の宸翰しんかん(天皇直筆の文書)によれば、天皇は「可忌輩取退ケ深々悦入候」と、攘夷強硬論者の排除を喜びながらも、長州藩主父子(毛利敬親たかちか元徳もとのり)を「温順之人」とし、長州藩自体を完全に排除することまでは考えていなかったようです。



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■「八月十八日の政変」後の両藩の関係

 文久3年12月24日、外国との交易のため、芸州の繰り綿を積んで長崎に向かう途中の薩摩船(幕府から借用の長崎丸)が、下関海峡で長州藩の過激派によって砲撃され、沈没する事件が起きました。


長崎丸船板(大蔵院(北九州市)蔵)

長崎丸船板(大蔵院(北九州市)蔵)


 先の政変への報復と、攘夷の最中に外国と交易を行う薩摩藩への憤りによるものでしょう。

 この事件で長崎丸の搭乗員28名が死亡し、その中には薩摩藩が長い歳月をかけて養成した技術者が相当数含まれていました。当然ながら、薩摩藩内では長州藩に対する報復の声が挙がります。

 勿論、この砲撃は長州藩府の命によるものではありませんが、その対応によっては一触即発の一大事件です。長州藩府では、薩摩藩から詰問きつもんされる前に謝罪使を送るか、詰問があってから薩摩藩の船と気付いたふりをして謝罪するかの選択に悩んでいました。

 そこに一石を投じたのが、長府藩十三代藩主の毛利元周もとかねでした。元周は、攘夷遂行のための諸藩一和の重要性を説き、先に謝罪使を送って朝廷・諸藩に公明正大な長州藩の態度を示すべきであると長州藩主に具申したのです。

 この意見は当を得たものでした。卑怯な手を使えば、朝廷の信頼も、諸藩の同情も得られず、京都での復権など果たせないのは明白です。

 長州藩府は、この意見を直ぐさま採用し、早速薩摩藩に謝罪使を派遣、長州藩の誠意ある態度に、薩摩藩の島津久光も寛大な処置で応え、この事件は解決を見るに至ったのでした。

 しかし、翌元治元年(1864)2月12日、今度は上関で同様の事件が起こります。義勇ぎゆう隊士が、薩摩藩御用商人の船を襲って沈没させ、船長の大谷仲之進を殺害したのです。

 事件後、大谷を殺害したとされる義勇隊士の二人が、その首をもって大坂に走り、南御堂みなみみどう(現大阪市中央区)の門前で自決したため、薩摩藩との関係は、表面上事なきを得ましたが、二つの事件は薩摩藩士の長州藩に対する憎悪感を増幅させたことでしょう。



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■長州藩が「禁門の変」を起こした理由

 先の政変後、長州藩は雪冤せつえん(無実を明らかにすること)のための使者を朝廷に送っていたのですが、その使者の入京すら許されず、藩内では次第に武力を以て政権を奪取しようとする京都進発しんぱつの声が高まりました。

 これに対し、藩内を固めることを先決とする「割拠論かっきょろん」を唱える高杉晋作たかすぎしんさくは、これを抑えようと奔走しましたが、元治元年6月14日、長州藩士の吉田稔麿としまろらが襲撃された「池田屋事件(6月5日)」の報が届くと、その声は完全に封殺されてしまいます。

 陸続と東上してくる長州藩兵及び攘夷派浪士たちの動きに対し、同月27日孝明天皇は内勅を以て「長州人入京」不可の意向を示しましたが、長州藩に同情する公家も多く、朝議は紛糾、在京の諸大名からも長州藩への寛典かんてん(情けある取扱い)を望む声があがり、長州征討の勅命はなかなか下されませんでした。

 当初、この動きを傍観していた薩摩藩でしたが、長州が戦勝すれば、京都は政変以前の状態に逆戻りです。勿論、薩摩藩の立場も危うくなります。

 薩摩藩は、土佐藩や福井藩と共に関白や京都守衛総督しゅえいそうとく一橋慶喜ひとつばしよしのぶらに働きかけ、7月18日になって漸く長州征討の勅許を得ることに成功したのでした。

 そして、その翌日、ついに京都での武力衝突(「禁門の変(蛤御門はまぐりごもんの変)」)が起こります。


禁門の変(近世珍話(京都国立博物館蔵))

禁門の変(近世珍話(京都国立博物館蔵))


 伏見、山崎、天竜寺(嵯峨)の三方から御所を目指して進んだ長州勢は、伏見から兵を進めた福原越後ふくばらえちご隊が、途中大垣藩兵等に押し返されて一翼を失ったものの、天竜寺から進軍し中立売御門なかだちうりごもんに闘った国司信濃くにししなの隊、蛤御門にとりついた来島又兵衛きじままたべえ隊の奮戦めざましく、戦いを優位に進めました。

 しかし、乾御門いぬいごもんから応援に駆けつけた薩摩藩兵の砲撃を受けると、国司隊は堪らず潰走かいそう、その後、長州勢は総崩れとなり、京都復権の夢は打ち砕かれたのでした。そればかりではありません。長州藩は御所に向けて発砲したことを理由に「朝敵」の烙印まで押されてしまったのです。

 長州藩にしてみれば、またもや薩摩藩に邪魔された思いです。長州藩にとって薩摩藩は、将に不倶戴天ふぐたいてんの敵となったのでした。



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■その後の薩長両藩の関係(融和から同盟締結へ)

 以上のように、薩長両藩は、共に朝廷への忠節・忠勤を第一義としながらも、その路線の違いから衝突を繰り返してきました。しかし、その後、僅かの間に両藩は手を組み、倒幕・維新実現の道を共に歩んでいくこととなります。

 それでは、何故、そしてどのような過程を経て、両藩は融和し同盟まで結ぶこととなったのでしょうか。

 平成20年12月14日(日曜日)まで開催される企画展「長州と薩摩」では、両藩の対立、そして融和・共闘の過程と、そこに見え隠れする互いの考え方の違いや思惑を、さまざまな史料を通じて皆さんにお見せします。

 下関と、ここに暮らした人々に関係する事件・事象を背景に、長州藩と薩摩藩という二つの視点から幕末史をご覧いただきたいと思います。


長幕海戦図・坂本龍馬筆(個人蔵・京都国立博物館寄託)

長幕海戦図・坂本龍馬筆(個人蔵・京都国立博物館寄託)



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■下関市立長府博物館について

 下関市立長府博物館は、昭和55年4月1日に開設した郷土の歴史博物館で、「下関の歴史と文化」を基本テーマとし、下関と周辺地域の歴史・民俗に関する資料の収集・調査研究および展示活動を行っています。また、収蔵品は、長府毛利家遺品・幕末維新資料を中心に各時代各分野にわたっています。


・住所:下関市長府川端一丁目二番五号

・電話:083-245-0555

・URL http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kyoiku/chohuhak/index.html


◆明治維新百四十年記念企画展「長州と薩摩」

 ・会期:平成20年11月15日(土曜日)から12月14日(日曜日)まで

 ・休館日 月曜日及び祝日の翌日

 ・観覧料 大人500(400)円、大学生300(240)円 ※( )内は二十名以上の団体料金



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