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2008年4月1日更新

文化振興課

ゆかりの人物::高杉晋作

人物名

高杉晋作

人物概要

天保10年(1839)〜慶応3年(1867)

 幕末の長州(萩)藩士、尊王攘夷・討幕運動の指導者。

 藩校明倫館に学び、優秀な生徒に藩が学費を支給する居寮生に選ばれた。19歳の時吉田松陰の松下村塾に入門し、玄瑞と並んで松下村塾の双璧と称された。

 松陰からは、「僕、足下と交を納るるは、徒に読書稽古のためのみに非ず、固より将に報国の大計を建てんとすればなり」と、厚い信頼が寄せられたが、同窓生からは、鼻輪を通さない離れ牛に例えられた。

 文久元年(1861)の上海視察により強い危機意識を抱き、帰国後尊王攘夷運動に挺身した。

 文久3年(1863)5月長州藩は外国船砲撃を断行し、報復攻撃にあって敗北したため、直後の6月藩命により下関防衛の任にあたることとなり、下関の回船問屋白石正一郎宅で奇兵隊を結成、初代総督となる。

 元治元年(1864)四国連合艦隊による下関砲撃の善後処理を命じられ、講和交渉において正使として活躍し、講和条約を締結した。

 同年12月藩論を尊王攘夷派に戻すため、長府の功山寺において決起し、奇兵隊などの諸隊の力を結集して、大田・絵堂の戦いにおいて萩の保守派政権を破り、慶応元年(1865)2月政権を奪取した。

 翌慶応2年(1866)の四境戦争においては、大島の奪還、小倉口の戦いを指揮し、その機略を縦横無尽に発揮したが、肺結核の病状が悪化し、死去した。年29。 

 伊藤博文撰の顕彰碑文には「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢えて正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや…」とある。

肖像等

高杉晋作肖像(山口県立山口博物館所蔵)

高杉晋作肖像(山口県立山口博物館所蔵)

関連史跡


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