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2008年4月1日更新

文化振興課

維新史回廊トピックス 〈Vol.1〉

 みなさんこんにちは。このページでは、山口県に関わりの深い幕末・明治維新関係の資・史料、人物、事件等を取り上げて、できるだけわかりやすくご紹介していきたいと思います。
 記念すべき第1回は、山口県文書館の収蔵資料の中から、吉田松陰像(自賛)をご紹介いたします。
 資料の解説は、山口県文書館の山田稔専門研究員にお願いしました。


収蔵資料探訪(山口県文書館)

 吉田松陰像(自賛)〔吉田家本〕
 絹本着色 掛幅装 箱入 縦99.1cm・横35.8cm
 安政6年5月中旬作成

吉田松陰像(自賛)[吉田家本]

吉田松陰像(自賛)[吉田家本]

 

この資料が文書館に収蔵された経緯を教えてください。

 山口県文書館が所蔵する吉田松陰像(自賛)は、昭和29年(1954年)4月、東京都在住の吉田茂子さんから山口県に寄贈されたものです。茂子さんは、吉田松陰から三代後の吉田家当主・庫三氏の妻にあたる方です。
 寄贈された資料は、当初、県立山口図書館に収蔵されましたが、昭和34年(1959年)の山口県文書館開設に伴い、当館へ移管されました。

吉田松陰像(自賛)はいつ頃作られたものですか。

 安政6年(1959年)5月、萩の野山獄に入獄中の松陰に幕府から江戸送りの命が下されました。その年の10月に江戸伝馬町で処刑されましたので、この後松陰が生きて萩の地を踏むことはありませんでした。
 この吉田松陰像は、最期の旅立ちを前に、松陰門下の松浦松洞(まつうらしょうどう)(※1)が描いた師の肖像に、門下生達の求めに応じて、松陰が自賛(※2)したものです。

※1 松浦松洞(1837〜1862):萩松本の商人の家に生まれる。通称亀太郎、名は知新、字は無窮・温古。松洞と号した。幼時から絵を好み、[石間(はざま)]*西涯に四条派を学び、のち小田海僊に師事した。松陰の教えを受け、尊皇愛国の人となり、風教のため忠孝礼儀の人物を精力的に描いた。(*石へんに間)
※2 自賛:自分が描いた画(この場合は、自分が描かれた画)に題して、自分で詩・歌・文などを添え書くこと。


どのような経緯で作られたのでしょうか。

 この像が作成された経緯は、松陰自身が次のように書き残しています。「十六日、朝、肖像の自賛を作る。像は松洞の写す所、之に賛するは士毅の言に従ふなり」(「東行前日記」、大衆版『吉田松陰全集』第九巻)。つまり、賛文を作ったのは安政6年5月16日の朝、肖像を描いたのは松浦松洞で、賛を入れたのは小田村伊之助(士毅、楫取素彦(かとりもとひこ)、松陰妹婿)の勧めに従ったものであることがわかります。また、跋文(ばつぶん)(※3)は翌17日に作っています(東行前日記)。自賛の松陰像は、門下生達の求めもあって複数作られたようです。賛文は、各本ともほぼ同文ですが、跋文は書き与えた相手に応じて異なっています。

※3 跋文:書画の末尾に添える文。あとがき。


松浦松洞は、松陰の肖像をどのようにして描いたのでしょうか。

吉田松陰像(吉田家本の一部)

吉田松陰像(吉田家本の一部)

 

 この像の成立に関する研究に、広瀬豊著『吉田松陰の研究』(昭和18年)があります。同著では、肖像は野山獄入獄前から描かれていたものがあったとされています。その根拠として、門人平野清実の談話に「松浦松洞が先生の肖像をかきし時は、其顔を似せるに苦心し、幾度もかきて先生に見せたり、先生は鏡を以て之に照して批評せられ、像遂に成る、元来松洞が先生の像をかき始めたるは、先生東行の頃より二三年前にて、村塾にてかきたるなり、かねてより、身の行末を慮られたるなり、松洞のかきしは、余その現場を見たるなり」(「関係雑纂」、定本『吉田松陰全集』第10巻)とあることや、また、安政5年暮に入獄する際に、入江杉蔵から「子の面目復た見るべきこと難し。子の面目を見るべきものは、其れ唯だ文辞か。願わくは為めに一言を留められんことを」と願われ、「予戯れに之を拒みて云はく、『吾れ画を善くせず、画を善くする者は松洞生なり。向に余の面目を写せり。面目見るべし、何ぞ文辞を必とせん』と。」(「松陰詩稿」、大衆版『吉田松陰全集』第6巻)と答えていることなどがあげられています。
 一方、「東行前日記」安政6年5月21日条に、4つの跋文が記されていますが、その一つに「我が友無窮(松浦松洞)は画家にして、(中略)、今吾れ将に往かんとするや、復た獄に来りて吾を貌す。吾れ果たして終りを善くせば、此の像當に清狂と并せ伝ふべし。此の像連作数本あり、此れ其の家蔵に係る」とあります。
 これらのことから、肖像は安政3、4年頃から松浦松洞が描いており、江戸送り直前に野山獄中の松陰を訪ねて描いた場合もあったとみられます。また、その出来映えは、松陰自身も認めるものであったことがうかがえます。


松陰は、この像のような顔立ちだったのでしょうか。

 松陰の風貌については、「松陰筋骨逞しからざれども、修幹痩躯、亭然として長し。少時騎を習ひ、また剣を学びしが、共にその妙に至らず。これ文中しばしば割鶏の力なしと称する所以か、顔やや長く、隆準にして、白面に痘痕を帯ぶ。一見威風の人を襲ふものなし。ただ眼光の爛々として他を射るのみ」との記述があります(広瀬豊著『吉田松陰の研究』)。ちなみに、弟杉敏三郎の容貌が最も松陰と似ていたと言われています。また、松陰が江戸へ出立する前日、久坂玄瑞(※4)は密かに獄中の松陰を見たようで、その状況を高杉晋作(※5)宛の書状で「僕竊見先生於獄、痩骨エ崢、髪乱被面、死生危険之際、怡然処之無有難色」(吉田松陰関係資料No.201、妻木忠太著『久坂玄瑞遺文集』上)と記しています。現存する肖像は、前評のような松陰の風貌をよく表していると思われますが、身だしなみはいずれも整然としており、険しく刺々しく、髪が乱れて顔を覆うといった獄中の姿そのままを描いたものではないと考えられます。

※4 久坂玄瑞(1840〜1864):萩藩医の家に生まれ、高杉晋作と並び松下村塾の双璧といわれた。尊皇攘夷の急進論者。禁門の変で負傷し、自刃した。
※5 高杉晋作(1839〜1867):藩校明倫館に学び、19歳の時松下村塾に入門した。奇兵隊を組織し、第2次長州征伐で幕府軍を撃破するが、倒幕を見ずに肺結核で病死した。


松陰の自賛肖像は、いくつ作られたのですか。

 諸説ありますが、定本『吉田松陰全集』によると、松陰が自賛したものは全部で8幅あり、このうち「自賛肖像」は、1.吉田家本、2.萩松陰神社本、3.品川本、4.久坂本、5.岡部本、6.中谷本の計6幅。「自賛のみ」で、肖像を伴わないものが1.福川本、松浦本の計2幅とされています(松浦本は後に人をして肖像を描かせたといわれています。所在不明。)。


「吉田家本」の特徴は、どのようなものですか。

 自賛肖像の中では唯一のあぐらをかいて座った像であり、羽織をまとわず、刀は左脇に置いて、ややくつろいだ姿勢をとっています。紺色の着物が画面に締まりを与え、賛文の整然さとあいまってバランスの良い自賛肖像となっています。「顔やや長し、隆準にして、白面に痘痕を帯ぶ。一見威風の人を襲うものなし。ただ眼光の爛々として他を射るのみ。」(面長で鼻が高く、色白の顔に天然痘の痕がある。一見威圧感はないが、目は鋭く爛々と輝いている。)と評される松陰の面貌をよく表しています。


文章には、どのようなことが書いてあるのですか。

吉田松陰自賛(吉田家本の一部)

吉田松陰自賛(吉田家本の一部)

 

 賛文及び跋文の大体の意味は、次のとおりです。なお、それぞれの読み下し文については、「脚注解説吉田松陰撰集」((財)松風会)、大衆版「吉田松陰全集」及び「維新の先覚吉田松陰」((財)山口県教育会)を参考にさせていただきました。

賛文読み下し文
三分(さんぶん)廬を出づ、諸葛(しょかつ)やんぬるかな、一身洛(らく)に入る、賈彪(かひょう)安(いず)くにありや。心は貫高を師とするも、而も素(もと)より立つる名無く、志は魯連を仰ぐも、遂に難を釈(と)くの才に乏(とぼ)し。読書功無し、朴学(ぼくがく)三十年、滅賊計を失す、猛気二十一回。人は狂頑(きょうがん)と譏(そし)り、郷党衆(おお)く容(い)れず、身は家国に許し、死生吾久しく斉(ひとし)うせり。至誠にして動かざるは、古より未だ之れ有らず、人宜しく志を立つべし、聖賢敢えて追陪(ついばい)せん。

  (大意)私が尊敬する諸葛孔明や賈彪はもうこの世におらず、範としていた貫高(かんこう)や魯仲連(ろちゅうれん)のような功績を残すこともできなかった。こうした先賢の書を読み、国賊を滅ぼそうとしたが果たせなかった。故郷の人は私を非難するが、私は、国のために命を投げ出す覚悟はできている。誠意を尽くせば、心は通じると古くから言われているように、人は、是非とも高い志を立てるべきであり、(困難な状況でも)聖賢の志を私も敢えて追い求めたい。

  注:諸葛孔明、賈彪、貫高、魯仲連はいずれも中国の歴史を飾った人物で、志が高く松陰が範とした人々。

跋文読み下し文
己未五月、吾れ関左(かんさ)の厄あり。時に幕疑深重、復た帰ること期し難し。余因って永訣を以て諸友に告ぐ。諸友謀り、浦無窮(むきゅう)をして吾が像を肖(かたど)らしめ、吾をして自らこれに賛せしむ。顧(おも)ふに無窮は吾を知る者、豈に特(た)だ吾が貌を写すのみならんや、況や吾の自ら賛するをや。諸友其れ深くこれを蔵せよ。吾れ即(も)し市に磔(たく)せられるとも、此の幅乃ち生色あらん。

(大意)安政6年5月、私は江戸に送られるが、二度と帰って来られないと思い、周りの人々に最期の別れを告げた。人々は、松浦松洞に私の絵を描かせ、私に言葉を添えることを求めた。私をよく知る松洞は、この絵に外見だけを写そうとしたのではない。ましてや私が言葉を添えるのだから。人々よ、この絵を末永く保管して欲しい。もし私が処刑されても、この絵の中に私は生きているのだ。


最後に、山口県文書館のPRをお願いします。

 山口県文書館は、山口県の公文書及び記録並びに県内に関する文書及び記録(以下「文書」という。)を永久保存して、一般の人々の利用に供するため、昭和34年(1959年)4月、日本で最初の文書館として誕生しました。
 山口県文書館には、江戸時代の藩政に関する文書、明治以降の山口県の行政に関する文書及び山口県内の諸家、企業、団体、個人などによって持ち伝えられ、文書館に寄贈・寄託された文書など約44万点の文書があります。
 これらの文書のうち目録に記載されている文書については、閲覧室において閲覧が可能です。また、閲覧室では、月替わりで小展示を行っており、観覧は無料となっていますので、お気軽にお越しください(休館日にご注意ください。)。
 文書館の活動や県内の歴史に関心を深めていただくために毎年開催している文書館デイズ(今年は11月10日(金)〜12日(日))では、書庫の見学ツアーや特別資料展示等を行っています(無料)。普段見ることのできない書庫の内部や貴重な文書等が観覧できますので、是非ご参加ください(詳しくはホームページをご覧ください。)。
☆ 住  所  山口市後河原150−1(山口県立図書館と同じ建物)
☆ 電  話  083−924−2116
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