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山口ブランドストーリー「維新から明治へ〜近代化の礎を築いた長州人脈〜」公開! 明治時代、長州で学んだ者たちが、政治だけでなく文化・教育・産業などの面でも日本に維新をもたらしたストーリーを紹介しましょう。   

山口ブランドストーリー

2.「日本の鉄道の父」「日本の工業の父」など、日本の近代化をけん引した長州ファイブ

 長州ファイブの中で留学を続けた3人のうち、井上勝はイギリスで理化学や地質学を学び、鉱山や鉄道の現場にも出た後、帰国します。新政府では、鉄道建設に関わり、鉱山頭兼鉄道頭を経て、鉄道の開業2カ月前に鉄道頭専任となって1872(明治5)年9月には新橋-横浜間に日本初の鉄道を開通させます。さらにお雇い外国人への依存からの脱却を目指し、日本人技術者の育成や機関車の国産化にも尽力し「日本の鉄道の父」となります。

 山尾はグラスゴーへ行って造船の技術を学んだ後、帰国します。日本の近代化・産業振興のため「工部省」設置を政府に強く主張して実現させたほか、「工業無クモ人ヲ作ラバ、其ノ人工業ヲ見出スベシ」と技術者育成のため工学教育の学校の建設も強く主張して「工部省工学寮(現 東京大学工学部)」を創設させるなど、工業発展の源となる環境づくりや人材育成に力を尽くし、近年「日本の工業の父」として顕彰されています。

 また、山尾は技術を学ぶには感性も磨く必要もあると考え、1876(明治9)年には日本初の美術学校「工部美術学校(現 東京芸術大学)」を設立しています。さらに、イギリス留学中、図工や大工などの技術者に盲唖者が多いことを知り、日本の盲唖者教育に尽力したことでも特筆されます。

 遠藤はイングランド銀行や造幣局で造幣技術に接し、維新後、大阪に設けられた造幣局で技術者の養成に尽力しました。貨幣鋳造には、硫酸などさまざまな工業薬品や機械が必要であり、造幣局は輸入した大型設備機械以外は局内での自給自足に取り組み、日本の近代工業の礎を築く役割も果たしました。貨幣鋳造は当初、お雇い外国人の主導で行われましたが、遠藤は日本人技術者の育成に尽力し、約11年半務めた造幣局長時代に(在任期間は歴代2位)、日本人のみによる貨幣製造を成功させます。また、局長だった1883(明治16)年には「局員だけの花見ではもったいない。市民と共に楽しもうではないか」と造幣局の「桜の通り抜け」を始めたことでも知られます。


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