
なぜ関門海峡から幾つもの革新のドラマが生まれたのか―。
下関市在住の作家・古川薫氏は、それには必然性があると語ります。
高杉晋作、桂小五郎、直木賞受賞作『漂泊者のアリア』の藤原義江など、山口県で生まれた数々の先駆者たちを小説に描いてきた古川氏と、その答えを追って、海峡の歴史を旅します。
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古川薫(ふるかわ かおる) |
(タイトル写真)
「関門海峡の風景の美しさに最初に折り紙をつけたのは、長崎のオランダ商館の医者だったシーボルト。
彼は長崎から江戸参府するときに船上から海峡を見て『すばらしいパノラマだ』と感激。
『ファン・デル・カペレン海峡』と勝手に命名しているんです」と 古川氏。
下関を初めて訪ねた人は、関門海峡を前に、対岸の九州がすぐそこに見えることに驚きを覚えるかもしれない。海峡の最もくびれた部分は、わずか700メートルほど。そこは関門橋の架かっている辺りで、源平最後の合戦「壇ノ浦の戦い」の場に当たる。
「ここには歴史を秘めた海がある。眺めもいい。巨船がすぐ目の前を横切っていく、狭い海峡ゆえの迫力もいい。関門海峡は日本一の海峡ですよ」
瀬戸内海と日本海という2つの海を結ぶ関門海峡。タンカーや貨物船、客船などが次々と行き交うその海を、標高268メートルの火の山の展望台から身を乗り出して見渡しながら、作家・古川薫氏は声を弾ませた。古川氏は下関生まれ。海峡の風景は幼いころから見慣れているはずなのに、
「それが、飽きないんだなあ。朝日にきらめく海、夕暮れには黄金色、雨の日には鉛色、晴れた日には手をつければ染まりそうなコバルトブルー…。海峡の姿が全く同じという日は、一日としてない。実は、僕は自分の部屋に望遠鏡を置いていてね。水平線からマストが現れ、やがて船全体があらわになって、だんだん近付いてくる。それを見るのが好きなんですよ」
いにしえからこの海峡には、大いなる夢を載せた幾多の船が行き交ってきた。7世紀から9世紀にかけては遣唐船が、平安時代には平氏の仕立てた日宋貿易船が、室町時代には山口を拠点とした西国一の守護大名・大内氏の日明貿易船や日朝貿易の船が行き来した。
この海峡はまた、あまたの戦船を浮かべた海でもある。しかもただの合戦の場ではない。源平合戦で武家政治の始まりを迎え、その約七百年後に武家政治を終わらせる幕末の動乱の重要な舞台になるなど、関門海峡は日本史を大きく動かす「革新の舞台」となってきた。それには必然性がある―と古川氏は言うのだが、いったいどういうことなのだろう。
源平最後の合戦はなぜ関門海峡だったのか
革新のドラマの一つ、源平最後の合戦、壇ノ浦の戦いが行われたのは文治元年(1185)3月のこと。それより先、平家総帥の平宗盛は、一ノ谷(兵庫県)・屋島(香川県)での合戦で相次いで源氏軍に敗退。瀬戸内海の西端に位置する長門国彦島(現在の下関市彦島)に陣を敷いていた平知盛の元まで落ち延び、起死回生を賭けた地が、関門海峡だった。
源氏軍が現れたという知らせが入るや、平知盛は門司にしつらえた仮御所から数え年8歳の安徳天皇や平家全員を船に乗せ、海峡へ。戦船は両軍合わせておよそ千数百隻。戦いは初めこそ平家が優勢だったが、武士ではなく、船をこぐ舵取・水手らを射るという当時としてはおきて破りの源義経の奇襲作戦や平家内部の裏切りなどによって形勢は逆転。ついに最期を覚悟した二位尼は孫の幼い安徳天皇を抱いて海へ飛び込み、女官や平家の武将も次々と入水して、戦は悲劇的な終幕を迎えたのだった。
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| 毎年5月3日、関門海峡を舞台に繰り広げられる「源平船合戦」。 地元の漁船約80隻が、平家の赤旗、源氏の白旗をなびかせて、壇ノ浦の戦いを再現する。 |
しかし、平知盛はなぜ、安徳帝をはじめ平家全員を船に乗せたのか、不思議に思う人はいないだろうか。それについて、「海戦に絶大な自信を持っていたのと、一族の命運を賭けた悲壮な決意の表れですよ」と古川氏は言い、源平最後の合戦の舞台に平家が関門海峡を選んだ理由について、こう推測する。
「平家一門の隆盛の源だった日宋貿易の拠点・九州の博多港と京都を結ぶ瀬戸内海は、平家にとって経済や物流の重要な動脈。その動脈の東口の絶好の軍事拠点が、四国の北限に位置する屋島。一方、西口を押さえる要害の地が、関門海峡の彦島だった。つまり、平家軍は平家一門のエネルギー源だった九州で立ち直りを目指すため、瀬戸内海という一本の動脈を東西で固めて源氏軍を迎え撃つ作戦を立て、"制海権"を保とうとした。ところが、屋島はあえなく陥落。平家はもはや関門海峡での一戦に命運を賭けるほかなかったんです」
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みもすそ川公園にある「八艘(はっそう)跳 び」の源義経像。 隣に、平家一門の最期を 見届けた後、自ら碇(いかり)を背負って入水したという勇将・平知盛の像がある。 |
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| 毎年5月2・3・4日に行われる「先帝祭(せんていさい)」。その最大の行事「上臈道中(じょろうどうちゅう)」は、壇ノ浦の戦い後、生きながらえた平家の女官が女郎に身を落としながらも安徳天皇を慕い、その命日に威儀を正し、御陵に詣でたことに始まるという。 |
なぜ攘夷から倒幕に向かうドラマが海峡で生まれたのか?
関門海峡を舞台にしたもう一つの大きな革新のドラマを挙げるなら、幕末、通過する諸外国船へ砲撃を実行した攘夷戦だろう。この攘夷戦は、嘉永6年(1853)のペリー来航により、幕府が不平等な日米和親条約を結んだことが引き金だった。
「日米和親条約によって徳川幕府の鎖国以来約250年ぶりに、関門海峡は国際航路として復活。海峡にはアヘン戦争後の上海と横浜を往復する英・仏・蘭の軍艦も悠々と航行するようになり、その姿に刺激された長州藩が文久3年(1863)、外国船への砲撃を実行し"海峡を封鎖"してしまった。その結果、外国船も日本船も自由に航行できなくなり、西日本一帯の物流が停滞。中でも最も積極的に日本との貿易を行っていたイギリスが、最大の打撃を受けてしまったんです」
そのため翌年、報復としてイギリスを主力とした英仏米蘭四カ国連合艦隊が来襲し、長州藩は惨敗(下関砲撃事件)。しかし、この惨敗が、世界の現実に目を開かせ、攘夷から倒幕へと長州藩が転じる大きな流れを生むことになったのだった。
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明治39年に造られた「旧下関英国領事館」。幕末、4ヶ国連合艦隊来襲の際、英国の軍艦に通訳として乗船していたアーネスト・サトウが、後に下関への領事館の必要性を本国に報告。全国4番目の英国領事館として誕生した。国の重要文化財。 |
北前船が日本を動かした?
こうして見ると関門海峡は戦いの場としての面ばかりが浮かび上がってくるが、それだけではない。「江戸中期に始まった北前船が、戦とは無縁の最も輝かしい歴史を関門海峡にもたらしてくれた」と古川氏は言う。
「北前航路は、当時の流通の大動脈。北国で買い集めた海産物や米などを積んで日本海を下って関門海峡に入り、瀬戸内海を通って大阪や江戸へ物資や文化を運んだ。その"日本海側と瀬戸内海側を結ぶ航路の要"が関門海峡で、このときから下関は中継交易港として発展し始めたのです。」
下関は北前船の本航路だけでなく、地方と地方を結ぶ「地廻り廻船」の発着港にもなり、大阪〜長崎を結ぶ長崎航路にも直結。こうして西国有数の商業都市に成長していった下関の繁栄は、長州藩の維新のエネルギーにもつながっていく。物資が集積する下関の地の利に、長州藩がうまく目をつけたのである。
「長州藩は下関の海を埋め立て、そこを拠点に新しい港湾経営に乗り出したんです。倉庫を建て、北前船の積み荷を預かり、荷を担保に金も貸す。この商法で長州藩は大いに稼ぎまくった。いやぁ、なかなかの商売上手ですよ」
北前船相手にもうけたお金は長州藩の豊かな軍資金となって軍艦購入などにも充てられ、革新を志す維新の志士らを支えていったのである。
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「みもすそ川公園」にて、攘夷戦で使われた「長州砲」(レプリカ)と古川氏。
フランスが戦利品として持ち帰った後、所在不明になっていた長州砲を、古川氏がパリの軍事博物 館で発見し、返還運動の結果、貸与という形 で日本へ。 実物は、下関市立長府博物館で展示されている。 |
未来への潮流は今
現在の関門海峡は、昭和17年(1942)の関門鉄道トンネル開通を皮切りに国道トンネルや関門橋も開通し、本州と九州とは、いわば地続きになっている。そうした新しい交通体系は、海峡のまち・下関に大きな変化をもたらした。九州と地続きになったことで、下関は本州西端の重要な流通拠点としての特性を失い、通過都市的な色合いを帯びるようになってしまったという声もある。
そんな中で下関では今、新たな国際都市へ変貌していこうと、国際コンベンション都市づくりや、東アジアの人・物・情報などの交流拠点を目指す沖合人工島の建設など、次代へ向けた数々の取り組みが進められている。
古川氏はこう語る。「下関の新たな活路は、視線を海外に向けた取り組みしかないと僕も思いますね。国際会議場を備えた下関の『海峡メッセ』をもっと活用して交流を進めるべきでしょう。関門海峡の持つ潜在的な機能をさらに生かす新たな発想には、やはり交流が必要です。例えば、かつて下関にしばしば来るうちに、面白いことを考え付いた坂本龍馬のようにね。馬は廻船問屋の伊藤家に滞在して海峡を毎日眺めるうちに、『馬関商社(※注)』というものを作って、関門海峡を基盤に新しい経済活動をやろうと考えたんです。残念ながら龍馬は暗殺され、その夢は実現しませんでしたが。でも、龍馬のように、交流から何かとんでもない発想が生まれるかもしれません」
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| 海峡を間近に臨む地に建つ国際コンベンション施設・商業ビル・展望タワー「海峡ゆめタワー」からなる「海峡メッセ下関」。 展望台の高さは、西日本一の143メートル。 |
※注 馬関は下関の別称。龍馬は海峡を通る船から通航税を取り、また北前船を利用した新しい経済活動を行おうと考えていた。
関門海峡は「日本のスエズ運河」
時代を超えてさまざまな人々が未来への夢を浮かべてきた、この海峡が、なぜ幾つもの革新の舞台となってきたのか。その謎を解く鍵を、古川氏は意外なことに関門海峡から遥か彼方のエジプトで見つけたという。
「僕は以前、アフリカから船で帰国する際、(エジプト北東部に位置する)スエズ運河を通ったことがあるんですが、そのとき、スエズ運河は関門海峡とそっくりだと思ったんです。スエズ運河は、地中海とインド洋(紅海)。関門海峡は、日本海と瀬戸内海。どちらも二つの大きな海をつなぐ運河であり、非常によく似ています」
しかし、運河とは本来、陸地を掘削して造った人工的な水路のことで、海峡はそうではない。それについて、「僕は関門海峡の持つ"機能が運河"だと考えているんです」と古川氏は言う。スエズ運河は、アフリカの最南端・喜望峰回りのコースを大幅に短縮した、アジア・ヨーロッパ海上交通の要の運河。同様に運河の機能という視点から捉えれば、関門海峡も日本と世界を結ぶ海上交通の要の役割を担う。その二つが持つ共通の機能を、古川氏は歴史をひもといて、こう説明する。
「スエズ運河の経営権は当初、開通させたフランスとイギリスが握っていたんですが、エジプトが占有権を宣言したことにより、中東戦争が突発した。そういうふうに運河というものは、そこをせき止めると戦争が起きるんです。それは関門海峡でも同じです。内海水路の西端の要害に陣を敷き、最後の一戦に命運を賭けた平家。長州藩による海峡封鎖に大きな打撃を受け、その報復に四カ国連合艦隊が来襲した下関砲撃事件―。関門海峡は何千年も前からあるため、ありがたみが分かりにくい。でも、せき止めてみると、運河として大きな機能を持っていたことが分かるんですよ」
古来、数えきれないほどの人や物資を運び、夢やドラマを生んできた関門海峡。その海峡に秘められた謎を解いていくと、本州西端に位置する、狭い海峡ながら、いかに魅力的で重要な運河であるかが浮かび上がってきた。この海峡はこれからも未来を拓く革新の舞台になっていくことだろう。
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下関市観光振興課 電話: 0832(31)1350
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「関門海峡」








下関市と福岡県北九州市では今、海峡・県境を越えて連携したユニークな取り組みが進められている。その1つが、平成13(2001)年に制定された「関門景観条例」。その目的は、関門海峡や海峡に面した地域の自然環境・街並みなどを、両市民の貴重な財産として保全・育成・創造し、景観の魅力をさらに高め、将来の市民に継承していくことにある。