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特集●元気元景やまぐち・ファイティングスピリットの故郷 巌流島の謎。 下関市 夢先案内人 小説家 赤江瀑

下関市の城下町、長府にて。 写真

剣豪宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地といわれる巌流島。関門海峡に浮かぶ、その小さな島が、なぜ決闘の地に選ばれたのか。いや、本当に二人の決闘はあったのか。小次郎は実在するのか…。
多くの謎を秘めて歴史の波間に漂う巌流島を、下関在住の作家 赤江瀑氏が、下関市在住の郷土史に詳しい武部忠夫氏と共に訪ねました。

赤江 瀑
小説家。昭和8年(1933)山口県下関市生まれ。日本大学芸術学部中退。昭和45年に処女小説『ニジンスキーの手』で第15回「小説現代」新人賞を受賞して文壇デビュー。以後、夢幻とエロスとタナトス(死)の文学と呼ばれる独自の文学世界を築く。昭和47年山口県芸術文化振興奨励賞、昭和49年『オイディプスの刃』第1回角川小説賞、昭和59年『海峡』『八雲が殺した』第12回泉鏡花文学賞受賞。伝統芸術や京都を舞台にした小説が多いが、『オルフェの水鏡』『海峡』『サーカス花鎮(はなしずめ)』『ホルンフェルスの断層』『原生花の森の司』『鬼恋童(おにれんどう)』など山口県を舞台にした小説・随筆も多い。下関市在住。

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巌流島の謎。

 下関市の西端、彦島に、目的の島へ渡る船着場はあった。
「関門海峡は最速で時速二十キロ近く、鳴門海峡についで日本で二番目に潮の早いところでね。しかも西流れ東流れと一日四回潮の流れが入れ替わる。そりゃ昔の伝馬船なら大変だったろうねえ」。船頭さんが語る、その早潮の関門海峡へ、私たちを乗せた船は繰り出していった。数分程度で着くという話だったが何しろ乗り込んだ船は小さな渡船で、しかも目指すは慶長十七年(一六一二)宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘したといわれる、あの巌流島なのである。微かな不安と期待が胸をよぎる。「僕の家の前はすぐ関門海峡だし、巌流島もよく知っているけれど、これまで渡ったことはなかったなあ」
 そう語るのは泉鏡花文学賞作家、赤江瀑さん。妖美で謎めいた独特の作風で知られる下関市在住の作家である。隣には、郷土史に詳しい下関の劇団「海峡座」代表の武部忠夫さん。赤江さんは放送局のシナリオ作家として活躍していた時期があり、武部さんとはその頃からの三十数年来の付き合いになるという。武部さんは武蔵・小次郎についての執筆も手掛け、近年は巌流島での催しにも深く関わっていることもあり、船から降りた後は、武部さんの案内で歩くことになった。


「大地を別つ。世界を隔てる。それが、海峽の本態である。別つこと、隔てることに、海峽の使命もある。生命がある。とすれば、そこにこそ、海峽の眞秀(まほ)ろばもあると言えようか。」 赤江瀑著『海峽−この水の無明の眞秀ろば』(白水社)より。

海峡に浮かぶ決闘の島へ

 巌流島は関門海峡に浮かぶ約〇・一平方キロほどの平坦な無人島である。
 その巌流島での武蔵・小次郎の決闘は辰の上刻(八時)が約束の刻限だったという。なのになぜか武蔵は約一刻も遅れて現れ、小次郎を苛立たせ、それが武蔵勝因の一つとなったといわれている。また、武蔵は太陽を背にして剣を構えたため、背後の海にちょうど中天の陽が反射し、その眩しさに小次郎は
幻惑されたのだともいう。
 だが、それらは吉川英治著『宮本武蔵』、村上元三著『佐々木小次郎』をはじめ創作されたフィクションであって、本当に二人の決闘があったのか、実は確かな史実として言い切れる記録はない。
 私たちがその日、島に着いたのは正午すぎのことだった。「決闘は巳の下刻(十一時)過ぎごろだったらしいから、ちょっと遅かったねえ」
 武部さんが笑いながら言うと風景を静かに眺めていた赤江さんが口を開いた。「こうして見ると吉川英治さんは武蔵自身が書いた『五輪書』をよく読んでいて、さすが取るべきところは取っていると感じますね。五輪書の火の巻には、太陽を背にしろ、障害物の多いところに追い詰めろ、舟路にあっては、その『渡』の位置を知り、舟の性能を知り、日和のよしあしをよく知っていくように、といったことがちゃんと出てきますからね」
「うん。あの決闘の時刻も吉川さんは五輪書から推測したんだろうね。武蔵の五輪書といえば、小次郎の名が一つも出てこないのも面白い。村上元三さんが『佐々木小次郎』を書いたように、小次郎は謎が多いからかえって自由に創作できるものね」と武部さん。すると、赤江さんから思いがけない言葉が返ってきた。「そういえば武部さん、話したことがなかったかな。実は、僕も小次郎を書きたかったんだ。もうずいぶん前だけど、実際書く寸前までいった時期があったんだ…」


巌流島は、関門海峡に浮かぶ約0.1平方キロほどの小さな無人島。

敗れた小次郎の名を冠した島

 巌流島は元は「船島」と呼ばれた島だった。それがいつしか、敗者である佐々木巌流小次郎に思いを寄せたのか、下関の人はなぜか巌流島と呼ぶようになったという。島には昔、小次郎の墓と伝わる自然石の碑もあったといい、今も碑はあるがそれは明治四十三年に土地の有志たちが作り直したもの。武部さんに教わって行ってみると、島に唯一緑が茂る中、椿の木や野の草花に守られて眠るようにその碑はあった。
 吉川英治、村上元三、武者小路実篤、五味康祐、司馬遼太郎と、何人もの作家が武蔵・小次郎を書いてきた。そして赤江さんもなぜまた彼らを、しかもなぜ小次郎を主人公として書きたいと思ったのか。その訳を尋ねると赤江さんは少し笑って言うのだった。「五輪書を読むと、武蔵は剣の道の人だから当然なのでしょうが、勝たなければ、という意志がすごく強い。斎藤茂吉さんと菊池寛さんが武蔵のことでけんかした有名な話があって、剣術家だから勝てばいいと菊池さんは言い、茂吉さんは歌人の立場から剣にも情の世界があるだろう、と思われたんでしょう。剣の道に詳しい人の間では五輪書は柳生但馬守宗矩の『兵法家伝書』と並ぶバイブル的存在。でも五輪書には、他流は全てだめ、というような独善的なところがあって、剣の道を深く悟った人とは思えない気が僕にはしますね。剣を使う人にとっては、五輪書は実用書として面白いだろうと思います。ただ僕は、どういう動機で巌流島で決闘が行われたのか、なぜあの場所だったのか、それが分からない。そこに僕は、惹かれるんです」

就職活動のための決闘だった?

 なぜ巌流島だったのか。その答えを武部さんはまず、関ヶ原後という時代背景から推測する。「僕は、二人の背後にだれかプロデューサーがいたんじゃないか、あれはあの時代の就職活動のようなものだったんじゃないかって思うんですよ」
 それに応えて赤江さんは、「うん、面白いね。確かに、名だたる兵法者・剣術家たちと試合して名をとどろかせないと、いい藩に自分を売り込む機会がない。有名になりたいっていう青春の野望は、人間
の属性みたいなもので、だれにでもあるもの。性格は違っても、小次郎もそういう剣の修業の仕方をしていたように思うな」「小次郎といえば、小倉藩に仕官していたこと以外、一切分からないでしょう?」と武部さん。「佐々木という名が出てくる資料は確かにある。でもそれ本当に小次郎なのかなあ。もし仕官していたとしたら決闘時の年齢は?」「すごく高くなる。小次郎の年齢は謎で、五味康祐さんは七十歳ぐらい、村上元三さんは青年でしかも美剣士、吉川英治さんは三十歳前だろうと推測していて、他にもいろんな説がある。謎といえば、僕は世阿弥に詳しい赤江さんにお聞きしたいことがあって、五輪書には世阿弥の『花伝書』と似ている部分があると思うんですよ。例えば世阿弥の〈離見の見〉。あれは、あの時代、よくぞそこまで捉えた言葉だと思うんだけど、それに比べると武蔵が五輪書でいっている〈観見〉、あれはどうなんだろう?」「武蔵の〈観見〉は、大きい目と小さい目の両方の目をもて、というような意味ですよね。それに対して世阿弥の〈離見の見〉は、もっと複雑な芸術論。舞台上の演者は観客と同じ所に座って自分を見るもう一つの目を持たなければいけない、という境地。武蔵が世阿弥を知る機会があれば、その片鱗に触れたかもしれないけど、花伝書も兵法家伝書にしても〈秘すれば花〉、一子相伝で他人が勝手に見られなかったものだし、その存在が明らかになったのも明治時代以後のことだからねえ…。
 ただ僕は、武蔵のことや小次郎が本当にいようといまいと、それよりも巌流島という名をもつ島が現実としてあって、その島の置かれている状況が普通じゃないということ。関門海峡は日に四回も潮流が変わる特殊な海峡で、しかもその海峡の入口、急流の激しい所に巌流島はある。なぜそんな場所で決闘しなければならなかったのか。僕には、そのほうが興味深い」

取材の日は彦島からの船で巌流島へ。わずか数分の小さな船旅だ。 武蔵が巌流島へ渡った船宿は、阿弥陀寺(あみだじ)現在の赤間神宮(あかまじんぐう)近くにあったのではという。

巌流島の謎

 巌流島の謎を解く鍵を赤江さんは武蔵・小次郎の内面に探った。
「武蔵も小次郎も血気盛んで自意識が強く、腕前にすごく自信をもった、かなり特殊な二人だと思う。
そうすると普通の人では舞台にしきらない海峡の真ん中の島というのは、あの二人ならば決めそうな場所だ、と僕には思えるんですよ。江戸時代の錦絵に描かれた巌流島は、切り立った断崖の岩の島で松が生い茂り、試合ができるような足場がありそうにない。それに、関門海峡には秀吉の船が座礁した与次兵衛ヶ瀬などの危険水域があり、大正初めごろの漁師さんは干潮になると浮かび上がる州があったと言っている。その州と元の船島をくっつけて埋め立てたのが、現在の巌流島なのじゃないのかな。それに巌流島という名は〈流れ〉の厳しいところにある〈岩〉の島=岩流島とも読める。だから〈がんりゅうじま〉という名の島が先にあって、小次郎の方に〈がんりゅう〉という名を、戯作者か小説家が後で重ねたのかもしれない」
 赤江さんの言葉に、武部さんは大きくうなずく。「伝説は語り継がれるうちに雪だるまのように膨れ上がってしまうことがあるけれど、その中に真実が隠されていることもあるからね。だれかの意図などがあって小次郎の存在を隠したのかもしれないね」

武部忠夫氏は昭和十年下関市生まれ。昭和二十八年に「海峡座」を創設以来、下関のほか東京・大分などで三百回以上公演。また『赤江瀑京都小説集』(立風書房)などで解説を、『しものせき・人・物語』(絹の道の会)で佐々木小次郎を執筆。山口県文化功労賞受賞。武部氏が主宰している「海峡座」として山口県芸術文化振興奨励賞、山口県選奨受賞。

下関の城下町長府(ちょうふ)にて。ここに城下町が築かれたのは江戸時代初め、毛利秀元(もうりひでもと)が慶長七年(一六〇二)に長府毛利藩として串崎城を築いて長府へ移ったことに始まる。巌流島での決闘は、それからちょうど十年後のことになるという。

5月3日「しものせき海峡まつり」。巌流島はこの日、決闘の再現など多彩な催しで賑わう。 島の見直しの起爆剤となった巌流島ピクニックコンサート。

海峡は、未来を拓く夢を育む

武部さんは関門海峡を「歴史が東へ西へ流れた地。四つの島がそれぞれの時代の大きなドラマを背負って浮かぶ不思議な海峡だ」と形容する。古代、神功皇后伝説の「満珠島」・「干珠島」、源平合戦や幕末の馬関戦争ゆかりの「彦島」、そして「巌流島」である。
 だが、その巌流島は明治以降、個人所有地となって石炭置場、造船所敷地等へ変貌を余儀なくされ、
荒れ果てた島は長い間市民から見捨てられた島になっていた。それが昭和五十八年(一九八三)下関の
若者たちの手で巌流島ピクニックコンサートが行われたのを機に、にわかに島の見直しが活気づき、今やそのイベントは毎春の「しものせき海峡まつり」の「巌流島フェスティバル」として定着。武部さん自身も、そこで劇団の仲間たちと巌流島決闘の再現を行っている。
 ただ、公園整備が進む現在の巌流島を訪ねる人の中には、何か違和感を覚える人が少なくないだろう。それについて赤江さんは面白い見方を提案する。
「むしろ、いかにもそれらしい面影がしのべない方が、さっぱりしていいかもしれない。人間の社会、人の心、海峡の流れ、そういうものにいたぶられて、ああいう島になったのだからね。風景が変わっていくのは当然のこと。でも、巌流島がただの人工島ではないんだぞ、と知ってもらえればいい」
 昔から海峡をはさんで競い合ってきた北九州市と下関市とのライバル関係も、近年は関門地域行政連絡会議の結成や共催イベントなどの機会が増えて変貌しつつある。それはまさに海峡を結ぶ関門大橋が象徴する現代の風景だ。が、赤江さんはいう。「離れているものは離れているところに本質的な世界があって、離れていてこそ独自の野性が存在する。こういう時代だから仲良くするのはそれはそれでいい。ただ願わくば、その土地の野性は受け継いでいって欲しい」
 赤江さんが小次郎を書こうと思ったのは、まだ赤江さんが小説家としてデビュー間もない頃のことだったという。「そのころ新聞で村上元三さんが『もう一度私は小次郎を書く』とおっしゃられたのを見て、それで止めたんです。大先輩がそうおっしゃってるのに僕が書いてはいけない、そう思ったんですよ」
 人間の内なる修羅や虚実を独特の筆致で描き出す赤江さんなら、どんな巌流島が生まれていたのだろう。どういう小次郎にするつもりだったのですかと尋ねると、「それはやはり若い美剣士ですよ」と赤江さんと武部さんは二人、声を揃えて笑うのだった。
 遥か昔から数え切れない夢や野望が行き交ってきた関門海峡。そこには、見る人それぞれに明日へつづく自由な物語があっていい。

巌流島文学碑には、昭和24年12月から25年12月まで朝日新聞で連載された村上元三著『佐々木小次郎』の最後のフレーズが刻まれている。絵は古舘充臣(ふるたちみつおみ)氏。


インフォメーション

【NHK大河ドラマ】
平成十五年一月からNHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」が放映される。原作は吉川英治著『宮本武蔵』で脚本は鎌田敏夫氏。武蔵役に市川新之助氏。小次郎役に松岡昌宏氏。乞うご期待!

【巌流島観光】
巌流島には、佐々木巌流之碑や巌流島文学碑のほか、武蔵・小次郎決闘をイメージさせる延長九十メートルの人工海浜もある。平成十四年末まで工事中のため上陸できないが、平成十五年一月から唐戸桟橋発・彦島発の定期船が就航予定。なお、門司と下関唐戸を結ぶ連絡船は現在も就航中。

■船便についてのお問い合わせ
  スペースクルーズ TEL 093-331-8411
  巌流島渡船 TEL 0832-66-1009
  関 門 汽 船 TEL 0832-22-1471


下関市

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下関市のウォーターフロントには今、新しいスポットが続々と誕生している。1 「海響館(かいきょうかん)」は平成13年4月に移転OPENした市立水族館で海峡をバックにしたイルカのショーが大人気。地球最大生物シロナガスクジラの骨格標本も日本で唯一展示。海峡の潮流を再現した潮流水槽も必見。平成14年4月OPENの 2 「カモンワーフ」では唐戸市場に集まる新鮮な魚介類料理やショッピングが楽しめる。そのお隣が 3 「唐戸市場(からとしじょう)」。とれたて新鮮な魚介類が格安で入手できる。海峡のダイナミックな眺望を楽しむならば 4 「海峡ゆめタワー」。歴史ファンならば高杉晋作ゆかりの 5 「城下町 長府」へ。そして下関といえばやっぱり 6 「フク」。福の味をたらふく、どうぞ。

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観光の問い合わせ

下関市観光振興課
TEL 0832-31-1350
http://www.city.shimonoseki.
     yamaguchi.jp/kanko/

下関市観光コンベンション協会
TEL 0832-23-1144
http://www.tip.ne.jp/stca/ 


参照サイト

山口県広報広聴課課


〒753-8501
山口県山口市滝町1-1
TEL 083-933-2566
FAX 083-933-2598
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