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山口県の「きらめく元気」を発信
 
特集1 元気元景やまぐちファイティングスピリットの故郷「功山寺ほか」 夢先案内人/俳優 原田 大二郎(はらだ だいじろう)

 大政奉還の半年前、29歳で病没した高杉晋作。
 長州藩士200石の家に生まれ、吉田松陰に学んだ晋作は、欧米列強に半ば植民地化された上海を我が目で見て、侵略の脅威を実感。封建社会でありながら日本初、志があれば身分を問わず誰でも参加できる「奇兵隊」を創設。明治維新への扉を開く大きな役割を果たしました。
 その奇兵隊発祥の地・下関で、志士らを支えたのは数多くの庶民たち。そんな中の1人、勤王商人・白石正一郎と晋作の関係を軸に、原田大二郎さんと下関在住の郷土史家・清永唯夫さんが維新のスピリットとは何か、次代に何を伝えるべきかを検証します。

「面白きこともなき世におもしろく  
     すみなすものは心なりけり」

晋作が上の句を、野村望東尼が下の句をつくって唱和したと伝わる晋作晩年の和歌より。

原田 大二郎(はらだ だいじろう)
昭和19年(1944)横浜市生まれ。3歳のとき山口県上関町八島へ。その後、校長だった父の転勤に伴って田布施町城南、平生町佐賀、光市と転居。明治大学法学部卒業後、劇団文学座に入団(のちフリー)。昭和45年に新藤兼人監督「裸の十九歳」でデビュー、エランドール新人賞受賞。そのほか映画「蒲田行進曲」など。維新の志士を演じることも多く、大佛次郎原作テレビドラマ「天皇の世紀」では高杉晋作を演じた。映画・舞台・テレビのほか、講演会・自作絵画展開催など活動は多彩で、明治大学で朗読講座の講師も務めている。

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碑のみが建つ白石正一郎宅跡前にて。
碑のみが建つ白石正一郎宅跡前にて

「『乗った人より馬が丸顔』って言われたほどの長い顔。つり目が突っ張ってアタマのてっぺんから怒鳴りつける。相手は震え上がっちゃうんだけど、そんな晋作を誰も憎めない。三味線片手に自作の都々逸うたいながら、幕府転覆やっちゃったんだ。30歳前に全部段取りつけて死んじゃった。晋作を語るとき、ひいきのひき倒しにならないよう気をつけてるけど、とても冷静には語れないね」と豪快に笑う原田大二郎さんは、デビュー間もないころに高杉晋作を演じて以来の大の晋作ファン。
 その原田さんに下関在住の郷土史家・清永唯夫さんは会うと早速、下関市竹崎の荷受問屋「小倉屋」の主人・白石正一郎と晋作の初顔合わせの舞台、白石邸跡へと案内した。そこは奇兵隊結成の地、JR下関駅から約200メートル北、現在は中国電力下関営業所の敷地となっていて、
「今は埋め立てられて海は全く見えませんが、この目の前の国道がだいたい昔の波打ち際。屋敷の裏門から出ると、もう海で…」と清永さんの声がかき消されるほどの車の騒音に、波音を偲ぶのは、容易ではなさそうだった。

白石正一郎の『日記中摘要』 写真
白石正一郎の『日記中摘要』
全国各地の四百人に及ぶ志士が白石家に出入りしていたことが、この日記から判明した。
(個人蔵・下関市立長府博物館寄託)

何が晋作と白石を結ばせたのか

 晋作が白石邸を初めて訪れたのは文久3年(1863)6月6日のこと。長州藩は外国船を攻撃する攘夷戦を5月10日から3度にわたって決行したものの、6月1日に報復にきたアメリカの軍艦に大敗。窮した藩主が、下関防御のために起用したのが晋作だった。彼は藩士(正兵)だけでなく、志さえあれば身分を問わない画期的な「奇兵隊」結成を藩主に提案。そして真っ先に向かったのが、白石邸だった。
「見ず知らずの若者が、白石家にズカズカ上がり込んで、大広間の床柱を背にドッカとあぐらをかいたそうですよ。『奇兵隊をつくるぞッ!誰でも入れる、民衆のための、民衆による軍隊じゃ!みんなで長州を守るんじゃあッ』てなこと言ったンだね。晋作、弱冠25歳。オジサン白石正一郎、青天のへきれきってとこですね」
 原田さんの言葉に、ニヤッと笑った晋作が目に浮かぶ。実際、外国船から報復を受けた下関の人々の危機感はもちろんだが、晋作にはよほどの魅力、説得力があったのだろう。52歳の白石は、親子ほど年の離れた晋作にすっかり惚れ込み、即日、弟と共に自らも入隊しているのである。商人である白石の入隊はとても大きな意味があり、「彼が入ったことによって町人や商人にとっても奇兵隊が身近なものとなったのではないでしょうか」と清永さんは言う。
 しかしこのとき晋作の最初に行った先がなぜ白石のところだったのか。清永さんは、こう推測する。
「下関は当時、北前船(※注1)の交易が非常に盛んだったことから、商人である白石は全国の情報に敏感で、また両親ともども国学の素養が深く、熱心な尊王家でもあった。そんな白石家には西郷隆盛・坂本竜馬など全国各地の志士が出入りしていたことが、白石の日記から明らかになっているんです。薩摩藩御用達(※注2)にもなっていたし、つまり白石家は幕末期の情報センター。そこに行けば、他藩の情報が分かる。しかも、物心両面にわたっての支援もある。だからこそ、晋作が訪ねたんだと思うんです」
 また白石家はよく豪商だったといわれるが、どれほどの規模であったのか。その財力を頼って晋作が訪ねたわけではないのだろうか。
「ないとは言い切れないでしょうが…。白石は奇兵隊の会計方を務めるようになりますから、自分の金もかなり出したと思います。白石の知性が、彼に、時代を動かすことにつながる生きたお金を使わせたのでしょう」

※注1 北前船
江戸中期に興った廻船で、北海道や東北と大阪・中国地方との間を往来。海産物や米、塩や酒などを運送した。

※注2 薩摩藩
白石と両親の国学の師は、鈴木重胤。薩摩藩の同門の門人を通じて、白石は薩摩藩と交流するようになった。

奔放な晋作の裏に隠されたもの

 原田さんと清永さんは、海峡に臨む、ある草深い高台を訪ねた。そこは元治元年(1864)8月、英米仏蘭四カ国連合艦隊来襲の際、連合軍に占領された「前田砲台跡」で、原田さんは草に埋もれかけた碑に手を置くと、こう言った。
「近代日本が初めて外国軍隊の侵略を受けた土地です。あまりの恐怖に何キロも走って逃げた兵士もいたそうです。恥じゃありません。前田砲台こそ、下関が残さなきゃいけない歴史の記念碑ですよ」
 この戦いで長州藩は列強の脅威をまざまざと味わい、それが幕府に頼っておれないという倒幕への引き金になったといえる。

前田砲台を占領した連合軍 写真
現在の前田砲台跡 写真
元治元年(1864)8月、前田砲台を占領した連合軍。
(下関市立長府博物館蔵)
現在の前田砲台跡
「とてつもなく大きな砲が五門もあった。
石の大砲でこの台地を飾りたいね」と原田さん。

 その講和談判の際、藩から使節に命じられて連合軍の軍艦に乗り込んだのが、晋作だった。彼は礼装用の直垂に烏帽子という大仰ないでたちで現れ、その様子は連合軍の通訳が「魔王のごとくだった」と書き残しているほどだ。
 「晋作はそのとき、神主の祝詞みたいに日本開びゃくの歴史を説き起こし、連合軍側を煙に巻いたそうですね。賠償金の請求には『幕府の”外国船打ち払い令”に従っただけだ。どうしても払えというなら、我々は前田砲台で負けただけだから、いざとなったら長州藩あげて抵抗するぞ』って。その勢いに押されて連合軍の賠償金請求は幕府に回っていく。幕府は払ってますね。晋作の説得力は、尋常じゃないよね。普段から考え抜いてんでしょう」と晋作の役者ぶりに着目する原田さんに清永さんは頷いて、
「若かったから自分を大きく見せようと演技したんでしょうね。それにしても晋作は独断で軍艦を買ったり脱藩したり、好き勝手やっているようで大事な場面になると藩から呼び出されて大事な役をやっている。それが不思議で…」
 事実、文久3年に藩主が晋作を起用したとき、晋作は10年間の暇を許されていた身。講和の使節に命じられたときも脱藩の罪で入獄、謹慎の最中だった。年輩の重臣もいるのになぜ晋作があれほど重用されたのか。その答えを清永さんはこう推理する。
「彼の書簡を読むと、ものすごく親思い、兄弟思い。そして恩義を大事にしていた。藩は晋作が本質的に孝行者・忠義者だと知っていて、そういう人間なら大丈夫だろうと、奔放な行動の底に秘められた彼の真の見識を信頼していたからだと思うんですよ。でも、それでいて晋作は、封建的社会を覆す行為に踏み切らざるを得なくなる。そこに葛藤の深さがあって、それが尊いと私は思うんです」

時代の波に志士らの絆も揺れた

 奇兵隊に入隊した白石は、隊士の宿舎をあちこち斡旋したり、三条実美ら七卿(※注3)の宿として自邸を提供したり、尊王攘夷派が主流だった長州藩や晋作を金銭的な面からもずいぶん支えて駆け回ったようだ。また、薩摩との交流が深かった白石がいなければ薩長同盟なんて考えることもできなかったのでは、と原田さんは言う。
 しかし、連合艦隊に敗退後、長州藩では幕府に恭順しようとする保守派が政権を奪回する。白石は無力感に襲われ、晋作は九州へ亡命。が、2カ月もしないうちに晋作は、倒幕へ向けて藩論統一を図るため藩内の保守派打倒、つまり内戦をついに決意する。下関に戻ると五卿が潜居していた功山寺を訪ねて志を告げ、長州萩本藩の下関の出先機関・新地会所を襲撃。これが史上名高い、いわゆる「功山寺挙兵」である。
 ところが、 それまで晋作を支持してきた人でも、この挙兵に反対した者は少なくなく、身を削って彼を支えてきた白石も一時期袂を分かっている。その理由として、将来を見据えて下関を国際的に開港すると共に、交易商任せだった方式を本藩の直接交易へ、と考え始めた晋作に対し、そうなれば交易商だった白石は利権を失うからだという説がある。それについて清永さんは、
「商人なのだから白石がそう考えても当然のこと。激動の時代みんな迷う。高杉の先見性に当時の人がついていけなくてもしょうがない」と言い、原田さんも、
「山県有朋(※注4)はまだしも、福田恭平は晋作のことを思えばこそ挙兵に反対した。当時は幕府と戦争して勝てるなんて、誰も思っちゃいなかったでしょうからね」
「私は思うんですよ。師の松陰から生きられる限りは生きろ、不朽の死を見つけた時は潔く死ねと教わっていた高杉にとって、功山寺挙兵のあのとき、もう死ぬ覚悟はできていたんじゃないかと」
 山県が挙兵反対の理由に奇兵隊総督・赤祢武人の不在を挙げたとき、晋作は赤祢を藩士出身でないことに触れてののしったという。それが晋作の封建的意識の根強さだと批判する説もあるが、
「あの言葉は、今までずっと目をかけ信頼してきた同門の赤祢が、権力握ったとたん、最初の志と違うところに行ってしまった。そのことの腹立たしさから出てきたんでしょうね」と原田さん。清永さんも同意する。
「確かに晋作には新旧2つの世界が同居しています。でも、まだ成長過程の若者だったのだから、考え方も変わっていって当然だと私は思うんですよね」

桜山招魂社 写真
晋作の提唱で創建された奇兵隊士ら三九六柱をまつる桜山招魂社。
身分に関係なく、どの霊柱も同じ高さで整然と並ぶ。


※注3 七卿
尊王攘夷派の公家。白石邸にはそのうち六卿が滞在。功山寺挙兵のときには五卿となっていた。

※注4 山県有朋
山県有朋は松陰門下生。大田絵堂の戦いで奇兵隊を率いて晋作に呼応。維新後は陸軍大将・総理大臣などを歴任。福田恭平も奇兵隊で軍監などを務めた。

維新夜明け前の晋作の死

 功山寺挙兵後、内戦の末に晋作は藩の主導権を奪い、さらに四境戦争(長州戦争)で幕府軍に勝利、倒幕への流れを決定づける。
 しかし、幕府軍との戦いである小倉戦争の最中に病の床につき、慶応3年(1867)4月、29歳の若さで晋作は亡くなってしまう。しかもその死は大政奉還に始まる明治維新を、わずか半年後に控えてのことだった。
 晋作を支援した商人は白石だけでなく、それについて原田さんは、「下関の豪商・入江和作(※注5)は最初から最後まで晋作の面倒を見ていますでしょう。でも、白石は途中で晋作を離れてしまったようですね」
「だけど最後には、晋作の葬式を司るなど、白石がなにかと面倒をみているんです。それに晋作は自分たちが借り尽くし飲み尽くし、借財で没落しかかっている白石を助けてやってくれと死の床から藩に手紙を送っていて、恩に報いようとした彼の心根に私は惚れるんですよ」と語る清永さんに、原田さんは頷きながら、こう続ける。
「そして結局、白石も入江も維新後は没落していってしまう。ほかにも維新で活躍した無名の庶民はたくさんいて、明治2年の萩の乱では、生き残りの奇兵隊士がみんな処分された。伊藤(※注6)や山県、桂らと違って、世間から後ろ指さされながら生きていった人たちのことも絶対忘れちゃいけないと思いますね」

※注5 入江和作
晋作は入江家の茶室を活動拠点とし、入江は功山寺挙兵の資金を出すなどして支え続けた。

※注6
伊藤博文も桂小五郎(木戸孝允)も松陰門下生。維新後、伊藤は初代総理大臣、桂は参議を務めた。

次代に何を受け継ぐべきか

 維新を迎えた白石は明治元年、福田恭平から上京を勧められるが、なぜか政商になることを断って下関に残る。晩年は世俗から退き、赤間神宮の宮司となって明治13年、69歳の生涯を静かに終えた。
 清永さんは最後に原田さんを、新しい観光スポットが近年続々と誕生してにぎわう「あるかぽーと」に案内した。海峡に面したそこには、竜馬と晋作の顔のレリーフがはめこまれた2本の石柱がそびえ立っていて、
「『天をつく、剣の想い』ですね」と見上げる原田さん。「青春交響の塔」と名付けられたこの塔は、維新の史跡めぐりなど様々なイベントに参画してきた清永さんも参加する「志士の杜推進実行委員会」が「維新の志士たちのパワーを現代のまちや人に注ぎ込もう」と市民に募金を呼びかけ、8月に建立したばかりのモニュメントだ。
赤間神宮にて、水野直房宮司と。
幕末、奇兵隊の本陣でもあった。

「青春交響の塔」写真
「青春交響の塔」の造形は、彫刻家で東京芸術大学名誉教授、
山口県文化特別功労賞を受賞された澄川喜一氏。

「この不況下で7,500万円もの募金が集まり、下関にはみんなで燃える要素が今もある、大丈夫だと本当に認識したんです。大切なのは志を持つことだと思うんです」と顔をほころばせる清永さんに、原田さんは大きく頷いた。
「今回旅して、下関が変わろうとしている、その息吹を感じます。長州には命いっぱい燃えた若者がいて、それを燃えさせた大人がいた。明治維新のいい面、悪い面両方を見ながら、子どもたちに『これからも大丈夫だよ』って伝えられるかどうか、そこが勝負だね」
 晋作は晩年、こんな句を残している。「面白きこともなき世におもしろく―」。その句を継ぐべきは今を生きる私たちかもしれない。

※文中の年齢は数え年です。

清永唯夫(きよなが ただお)
 昭和6年(1931)山陽町生まれ。
 立命館大学法学部卒業後、下関市役所に勤務。退職後は下関市立長府博物館長、同市社会福祉協議会会長を務め、現在、山口県創作懇話会会長、下関・郷土の文化財を守る会会長、下関市文化財保護審議会委員などを務める。
 著書に『維新を駆ける』、『関門海峡百話』、古川薫氏編『高杉晋作』など。平成14年山口県選奨受賞。


インフォメーション

【下関市立長府博物館】

下関市立長府博物館 写真

長府毛利家遺品・幕末維新の史料が豊富で、フランス軍が持ち帰った長州砲などが展示されている。

下関市長府川端1-2-5
0832-45-0555

開館時間
午前9時 30 分 〜午後5時
(入館は4 時 30 分まで)
休館日
毎週月曜日(祝日の場合は開館)
年末年始

http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kyoiku/chohuhak/

【あるかぽーと】

関門海峡に臨む観光エリアで、市立しものせき水族館「海響館」や下関市唐戸と北九州市門司港を結ぶ関門連絡船の「唐戸桟橋」、隣接する地には新鮮な海の幸を楽しめるレストランなどが入った「カモンワーフ」、「唐戸市場」がある。

観光の問い合わせ
●下関市観光振興課
 0832-31-1350
 http://www.city.shimonoseki.yamaguchi.jp/kanko/
●下関市観光コンベンション協会
 0832-23-1144
 http://www.tip.ne.jp/stca/


晋作ゆかりの地〜萩市・山口市・美東町・下関市〜

1.萩城下町
1  
2.藩庁門 3.湯田温泉
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 晋作は毛利家36万石の城下町萩1の生まれ。幕末、長州藩は藩政の中心地を萩から山口に移した。志士たちがくぐった2「藩庁門」は今も山口県庁前に残る。山口の3「湯田温泉」は晋作・西郷隆盛・坂本竜馬らが密議をこらした地。彼らのつかった湯船が今も残る。山口の香山公園にある4「枕流亭」は薩長連合の密議を行ったところ。
 奇兵隊は功山寺挙兵の当初、晋作に応じなかったが、やがて一転呼応。晋作は美東町大田の5「金麗社」に本陣を置き、大田・絵堂の戦いで保守派に勝利。これを機に藩論は反幕府へ統一されていった。6晋作の墓所は、愛人おうのが彼の死後尼となって暮らした下関「東行庵」にある。7晋作はじめ維新の志士達が駆け抜けた「赤間関街道(中道筋)」は萩と赤間関(下関)を結ぶ道。

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参照サイト

山口県広報広聴課課


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FAX 083-933-2598
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