• 観光スポット
  • 特産品・お土産
  • 歴史情報満載
  • 豊かな自然
  • 文化文学紹介
  • UJIターン
  • ふるさと大使など
  • 企業向け情報
  • やまぐちQ&A
  • やまぐち写真館

やまぐちQ&A 郷土のあゆみ


Q1
山口県の歴史はどう推移してきたのですか。
Q2
山口県と大陸との交流の歴史はどうなっていますか。
Q3
山ロはどうして「西の京」といわれるのですか。
Q4
大内時代に山口を訪れたF・サビエルの生涯はどのようなものだったのですか。
Q5
明治維新ではどのような人が活躍したのですか。
Q6
山口県からこれまで何人の総理大臣が出ていますか。

古 代

アジア大陸に近い本県は、早くから大陸文化の影響を受け、紀元前2~3世紀には稲作技術が伝わり、水稲耕作が行われていました。
4~5世紀頃、大和朝廷による統一国家が形成され、県内には6つの国造(くにのみやつこ)と1つの県(あがた)が置かれ、さらに、7世紀には、大化の改新により、周芳(すわ)(=周防(すおう))、穴門(あなと)(=長門(ながと))の2国に統合されました。

中 世

平安時代から鎌倉時代にかけては、地方の武士団が台頭し、周防国では朝鮮半島の百済(くだら)の王族を祖と称する大内氏、長門国では厚東氏が、確固たる地位を確立していきました。
室町時代に入ると、大内氏が、24代弘世(ひろよ)のとき防長2国を平定。山口に京の都を模した町をつくるとともに、朝鮮や明との貿易で財力を蓄え、大陸文化の導入に努め ました。その結果、山口は「西の京」と呼ばれるようになり、絢爛(けんらん)たる大内文化が開花しました。
栄華を誇った大内氏も、31代義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に討たれて衰え、その陶氏を厳島(いつくしま)(広島県宮島)の戦いで破った毛利元就(もとなり)が、やがて中国地方のほぼ全域に勢力を広げました。元就の孫輝元(てるもと)は最盛期120万石を誇りました。

近 世

しかし、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に敗れた毛利氏は、周防・長門2国36万9千石に減封され、居城を萩に築きました。
これ以後、毛利氏は、専ら内政の充実に努めましたが、藩財政の運営は困難を極めたため、歴代の藩主は、「防長(ぼうちょう)の三白(さんぱく)(米、紙、塩)」(櫨蝋 (はぜろう)を加えて「四白(しはく)」)といわれる殖産政策を進めるなど、藩財政の基盤強化に努めました。この結果、長州藩は、幕末には100万石以上の実力を持つ雄藩になりました。
また、藩校(はんこう)明倫館(めいりんかん)を中心とする教育風土は、吉田松陰(よしだしょういん)、高杉晋作(たかすぎ しんさく)など数多くの優れた人材を輩出し、長州藩は、明治維新を推進する中心的存在となり、わが国の近代国家成立に大きな役割を果たしました。

近・現代

あなたの応援がふるさとの“力”へ(ふるさと納税)
周南コンビナート

江戸幕府が滅んで、明治政府が成立(1868年)すると、長州藩は他藩に率先して版籍を奉還し、明治4年の廃藩置県により、現在の山口県が誕生しました。
明治政府は、多くの新しい制度を取り入れ、近代化政策を推し進め、中でも、近代工業の導入と振興に努めました。本県においても、セメント製造や機械製糸の工場が設立されるなど、近代工業の芽生えが見られましたが、明治時代は、概して農業中心の県でした。
大正期に入ると、県内の豊富な鉱物資源や恵まれた港湾条件等により、瀬戸内海沿岸地域には、造船、化学、機械、金属等の工場が次々に立地し、さらに昭和期に入っても成長を続け、戦後には一大石油コンビナートが形成されるなど、全国有数の工業県として発展していきました。


【山口県文書館(もんじょかん)】
全国で最初の県立文書館として、昭和34年に設立。大内時代や萩藩政時代の文書、県庁文書など約40万点を収蔵しています。

A.本県は、三方が海に開け、本州の西端に位置するという地理的特徴を反映して、早くから大陸文化流入の門戸としての役割を担ってきました。

弥生人の渡来

響灘沿岸地域の遺跡

響灘沿岸地域の遺跡

本県には、古くから大陸文化受容の先進地として、多くの遺跡が残されています。響灘沿岸地域には、下関市の綾羅木(あやらぎ)郷(ごう)遺跡、梶栗浜(かじくりはま)遺跡、地蔵堂遺跡、下関市の中ノ浜遺跡、長門市の向津具王屋敷(むかつくおうやしき)遺跡など、中国大陸や朝鮮半島の古代文物を伴う遺跡が多く分布しています。
特に、下関市の国指定史跡土井ヶ浜(どいがはま)遺跡は、弥生時代の集団墓地遺跡であり、そこから発見された弥生人の300体余りの人骨は、前代の日本列島に住んでいた縄文人とは明らかに異なる、形質的特徴を持った人々であることが証明され、大陸から新しい文化をもたらした渡来人のものと考えられています。


大内氏の経済・文化交流

大陸諸国との経済・文化交流が盛んになったのは、室町時代に周防・長門の両国を拠点に石見(いわみ)(島根県)、筑前(ちくぜん)(福岡県)、豊前(ぶぜん)(大分県)など7カ国を支配し、西国一の勢力を誇った守護大名大内氏の時代です。
大内氏は、当時中国大陸や朝鮮半島の沿岸一帯を荒らした倭寇(わこう)を禁圧して朝鮮の信頼を獲得し、1396年、25代義弘のとき朝鮮へ使節を派遣しています。その後、歴代当主による使節派遣は、1551年までの150年余りの間に63回にのぼっています。日本と中国(明)との勘合(かんごう)貿易では、1401年から1547年までの間に19回にわたり、日本から遣明船(けんみんせん)が派遣されていますが、そのうち大内船は7回派遣され、特に最後の2回は大内氏が独占しました。大内氏は、この勘合貿易により莫大な富を得るとともに進んだ大陸文化を積極的に移入しました。

朝鮮通信使

大内氏没後、戦国時代を経て日本は長い鎖国の時代を迎えますが、江戸時代の鎖国下の日本にあって、李氏朝鮮は正式な国交のあった唯一の国でした。
将軍の代替わりや世子(世嗣)誕生などの折に、朝鮮国王の親書をもって来日した友好使節団を朝鮮通信使といい、1607年から1811年の200年余りの間に12回来日し、長州藩には潮待ちや風待ちのため、下関と上関に寄港しています。文教を尊ぶ藩風を持つ長州藩では、朝鮮通信使を厚くもてなし、儒学の先進国であった朝鮮の文人たちから水準の高い文化の吸収に努めました。


【土井ヶ浜弥生パーク】
土井ヶ浜遺跡に隣接して建設された公園。人類学ミュージアムでは、日本人の起源や現代人の成立ちが学べます。また、土井ヶ浜ドームには、遺跡の現場が再現されています。

土井ヶ浜弥生パーク

土井ヶ浜弥生パーク

弥生人人骨

弥生人人骨

※顔を西に向けているのが土井ヶ浜弥生人の
埋葬の特徴

A.絢燗たる大内文化

山口古図

山口古図

大内氏24代弘世(ひろよ)は、京の都に上った際、町のたたずまいや文化に強く心を引かれ、地形的に似ている山口の地に、京の都を手本とした町づくりを進めました。街路は区画正しく整備し、大殿大路(おおどのおおじ)、竪小路(たてこうじ)など京都風の名称をつけたり、京都から八坂(やさか)神社や北野天神(きたのてんじん)(現・古熊(ふるくま)神社)などを勧請するとともに、祗園(ぎおん)祭など盛大な祭礼を興し町の生活に彩りを添えました。

弘世の後も大内氏は、朝鮮や明との交易によって財貨を蓄え、引き続き京の都を手本とする町づくりに努めました。また、大陸文化を積極的に移入するとともに、画僧雪舟(せっしゅう)や連歌師宗祇(そうぎ)をはじめとする国内の文化人も多数招きました。

この結果、山口は京の都につぐ大きな町になるとともに、絢燗たる大内文化が開花し、「西の京」と呼ばれるようになりました。なお、大内文化を伝える建築物としては、八坂神社本殿、古熊神社本殿、瑠璃光寺五重塔(るりこうじごじゅうのとう)などがあり、雪舟庭も有名です。

A.フランシスコ・サビエル(1506~1552年)は、スペインの貴族の生まれで、宗教改革以後衰退しつつあった旧教勢力挽回のためイエズス会を設立し、生涯を通じインド、マラッカ、日本などで精力的な伝道活動を行いました。

山口での布教活動

F・サビエルの肖像(神戸市立博物館蔵)

F・サビエルの肖像(神戸市立博物館蔵)

日本へは1549年に訪れ、司祭ドルレス、修士フェルナンデスを伴って鹿児島に上陸し、平戸、山口などを経て天皇に布教許可を得るため京都に上りました。

しかし、京都は応仁の乱後で荒廃しており、目的を果たせず離京。1551年には再び山口に立ち寄りました。インド総督の親書を携え、精巧な置時計、火縄銃、妙なる音色をかなでるオルゴールなどの数々の珍しい贈物を持参して来たサビエルに、大内義隆はキリスト教布教の許可を出し、廃寺を教会として与えました。

サビエルはここを拠点に、5か月間の布教活動を行ったといわれています。この日本最初の教会のあった跡には、現在、サビエル記念碑が建てられています。その後、サビエルは46歳のとき中国で没しました。1952年(昭和27年)には、サビエルの来山400年を記念して、山口市亀山(かめやま)にサビエル記念聖堂が建てられました。

【サビエル?ザビエル?】
“Xavier”の読み方は多種多様ですが、バスク語でポルトガル風に読むと「サビエル」、英語読みで「ザビエル」。全国的には後者で通っていますが、山口では前者が使われることが多いようです。

A.幕末・維新の激動期に、長州藩は、諸藩に先駆け尊王攘夷運動を展開しました。

維新の志士

藩政担当者としてこの運動を支えたのが、周布政之助(すふまさのすけ)を中心とする藩校明倫館出身の革新派官僚グループです。

彼らは村田清風(むらたせいふう)の遺志を継ぎ、藩政改革を推進しましたが、政之助をはじめ、維新前夜に悲劇の死をとげた人も多くいます。

尊王攘夷運動から討幕運動にかけては、高杉晋作(たかすぎしんさく)をはじめとする吉田松陰(よしだしょういん)の門下生が奇兵隊等の諸隊の指導者として活躍しました。


また、久坂玄瑞(くさかげんずい)は晋作と共に「松門の双壁」と称され、京都を中心とする尊王攘夷運動のリーダーとして活躍、禁門の変で26歳の若さで自刃しています。

木戸孝允(きどたかよし、桂小五郎)は、薩長同盟を結び、西郷・大久保とともに維新政権確立に大きな役割を果たし、「維新の三傑」といわれています。


維新国家の軍政確立に貢献したのが大村益次郎(おおむらますじろう)で、山県有朋(やまがたありとも)がその後を継ぎました。

また、木戸孝允とともに維新国家で活躍した伊藤博文(いとうひろぶみ)と井上馨(いのうえかおる)は、1863年にイギリスに留学し、討幕戦参加後は、内政、外交に貢献しました。


明倫館図

明倫館図

明倫館武道練習場

明倫館武道練習場


【昔から教育熱心だった山口県】
幕末・維新の激動期に、長州藩から多数の人材が輩出した最大の原因は、長州藩教育の水準の高さと底辺の広さにあったといわれています。
1719年、防長文教の祖といわれる毛利吉元によって創建された藩校(はんこう)明倫館(めいりんかん)は、江戸末期に200余を数えた藩校のうち12番目にできたもので、幕末期には、設備、教育内容ともに勉学修業に必要なものをことごとく備えた学館となり、藩校としては天下に誇る偉観であったといわれています。
また、明倫館の創建を契機に、藩内各地に支藩校、郷校、私塾が設立され、さらに幕末期には、寺小屋などの庶民教育にも力が注がれました。
このような長州藩教育を代表するものが、官学では藩校明倫館であり、私学では吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)だったのです。
長州藩の官学・私学教育機関数

A.山口県からは、これまで、初代総理大臣の伊藤博文をはじめ全国トップの8人の宰相が出ています。※出身地は原則として、戦前は「出生地」を、戦後は「選挙区」としています。(首相官邸ホームページ)

山口県出身の8人の宰相

伊藤博文

伊藤博文(いとうひろぶみ)
初代総理大臣。憲法制定、内閣制度創設に尽力し、明治18年44歳(最年少)で総理大臣となったのを皮切りに、通算4度総理大臣に就任しました。(光市出身)


山県有朋

山県有朋(やまがたありとも)
大村益次郎亡き後、国軍の基礎確立に尽力。総理大臣には2度就任し、日清・日露戦争を乗り切りました。(萩市出身)


桂太郎

桂太郎(かつらたろう)
明治の終わりから大正の初めにかけて3度総理大臣に就任し、通算在位期間7年10か月の記録をもっています。(萩市出身)


寺内正毅

寺内正毅(てらうちまさたけ)
大正5年に総理大臣に就任、第一次世界大戦後の難局の処理に当たりました。(山口市出身)


田中義一

田中義一(たなかぎいち)
昭和2年に総理大臣に就任、普通選挙による最初の総選挙を実施しました。(萩市出身)


岸信介

岸信介(きしのぶすけ)
外交、内政に優れた手腕を発揮。昭和30年代に首相になって26か国を訪問、積極的な首脳外交を展開しました。(田布施町出身)


佐藤栄作

佐藤栄作(さとうえいさく)
岸信介の弟で、初めての兄弟首相。連続在位期間7年8か月の記録をもっています。日本で唯一のノーベル平和賞受賞者。(田布施町出身)


安倍晋三

安倍晋三(あべしんぞう)
岸元総理を祖父に、佐藤元総理を大叔父に持ち、平成18年に、戦後最年少で、戦後生まれとしては初めての総理大臣に就任。若さ溢れる行動力で「美しい国 日本」の創造に力を注ぎました。平成24年12月、第2次安倍内閣を組閣。(長門市出身)


戦後歴代の山口県知事

田中龍夫(たなかたつお)
昭和22年4月から昭和28年3月まで在任(2期)。初代公選知事として、「殖産振興」「若い県政」を推進。退任後も国政で活躍(通産大臣、文部大臣を歴任、平成2年退任)。萩市出身

小澤太郎(おざわたろう)
昭和28年5月から昭和35年8月まで在任(2期)。戦後の復興期に県勢発展に尽力。退任後も国政で活躍(衆・参議院議員、昭和58年退任)。山口市出身

橋本正之(はしもとまさゆき)
昭和35年9月から昭和51年6月まで在任(4期)。高度経済成長期に各種大型プロジェクトを進め、県勢の発展に尽力。下松市出身

平井 龍(ひらいとおる)
昭和51年8月から平成8年8月まで在任(5期)。世界に広がる「活力とうるおいに満ちた山口」の創造を基本目標に県勢の発展に尽力。柳井市出身

二井関成(にいせきなり)
平成8年8月から平成24年8月まで在任(4期)。「県民が主役となる県政」「市町とともに歩む県政」を基本姿勢とし、「住み良さ日本一の元気県」の実現を基本目標に県勢の発展に尽力。美祢市出身

山本繁太郎(やまもとしげたろう)
平成24年8月から平成26年1月まで在任。「輝く、夢あふれる山口県」の実現を基本目標に県勢の発展に尽力。柳井市出身

村岡嗣政(むらおかつぐまさ)
平成26年2月から在任。「活力みなぎる山口県」の実現を基本目標に県政を推進中。宇部市出身