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平成28年 (2016年) 10月 21日

広報広聴課

山口県の歴史

 アジア大陸に近い本県は、早くから大陸文化の影響を受け、紀元前3~2世紀には稲作技術が伝わり、水稲耕作が行われていました。


 また、4~5世紀頃、大和朝廷による統一国家が形成され、県内には六つの国造(くにのみやつこ)と一つの県(あがた)が置かれ、さらに、7世紀には、周防(すおう)・長門(ながと)の2国に統合されました。


 平安時代から鎌倉時代(794年~1333年)にかけては、地方の武士団が台頭し、周防国では大内氏、長門国では厚東(こうとう)氏が、確固たる地域を確立していきました。室町時代(1338年~1573年)に入ると、大内氏が、24代弘世(ひろよ)の時防長2国を平定。山口に京の都を模した町をつくるとともに、朝鮮や明との貿易で財力を蓄え、大陸文化の導入に努めました。その結果、山口は「西の京」と呼ばれるようになり、絢爛(けんらん)たる大内文化が開花しました。


 栄華を誇った大内氏も、31代義隆(よしたか)が家臣の陶晴賢(すえ はるかた)に討たれて衰え、その陶氏を破った毛利元就が、やがて中国地方のほぼ全域に勢力を広げました。


 しかし、1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に敗れた毛利氏は、周防・長門2国36万石余(36万9千石)に減封され、居城を萩に築きました。これ以後、毛利氏は、「防長の三白」(塩・米・紙)といわれる殖産政策を進めるなど、藩財政の基盤強化に努めました。また、吉田松陰、高杉晋作など数多くの優れた人材を輩出し、長州藩は、明治維新を推進する中心的存在となり、わが国の近代国家成立に大きな役割を果たしました。


 江戸幕府が滅んで、明治政府が成立(1868年)すると、明治4年(1871年)の廃藩置県により、現在の山口県が誕生しました。明治政府は、多くの新しい制度を取り入れ、近代化政策を推し進め、中でも、近代工業の導入と振興に努めました。本県においても、セメント製造や器械製糸の工場が設立されるなど、近代工業の芽生えがみられましたが、明治時代は、概して農業中心の県でした。


 大正期に入ると、県内の豊富な鉱物資源や恵まれた港湾条件等により、瀬戸内海沿岸地域には、造船、化学、機械、金属等の工場が次々に立地し、さらに昭和期に入っても成長を続け、戦後には一大石油コンビナートが形成されるなど、全国有数の工業県として発展していきました。

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